「セントクレア夫人の手紙」の発見　エピローグ 　アッテンボロー氏はもう一度最後の一行を繰返した。 「人生の黄昏どきに――さようなら、シャーロック･ホームズ様」 　まるで今まで知らずにいた恋人の秘密を知ってしまったかのように･･･。 「この手紙内容が本当だとすると、真実はワトスン博士が発表した話とまったく違う内容ということになるよね？」 　私は新事実の発見に立ち尽くす彼に話しかけた。私の問いかけに彼はやっとわれを取り戻し、ショックと緊張の為か乾いてしまった唇を舌で湿らせながら開いた。 「確かに『唇の曲がった男』には数多くの謎めいた所があったのです。ホームズ氏は何度かシティーでヒュー･ブーンを目撃していながら何故それが変装と分からなかったのかとか、何故わざわざ夫人が「杉屋敷」に捜査の拠点を置かしたのか･･･等なのですが･･･。」 　私は彼にそばの木箱に腰を下ろすように勧めた。私は『ブリキの文書箱』の前の木箱にすわり、彼が『セントクレア夫人の手紙』を再度黙読している間に、他に何か手がかりがないか『ブリキの文書箱』をのぞいて見た。 　するとおかしなことに気づいた。箱の底はブリキの板がひかれているのだが、それが微妙に浮いているのである。私は底にひかれた板の縁を爪で引っ掛けてそっと持ち上げた。果たしてもうひとつ大判の封筒に入れられた原稿が入っていたのである。 　封筒をあけ原稿の束を取り出してみた。原稿は悪筆高いワトスン博士の字で書かれていた。他の原稿と違い、故意なのか封筒の外側にタイトルが書いてなく、原稿を封筒から出してはじめて冒頭に書いてあるタイトルが読めた。 「『唇の曲がった男』の覚書」と。 「ねえ、アッテンボロー君。こちらの原稿のほうに何やらこの手紙に関する詳しい事が書いてあるようだよ、どうだろう？　いくら君がホームジアンでワトスン博士の悪筆になれているといっても一人で読みこなすのはかなり時間がかかるだろう。僕も手伝うから他の話は置いといて、この話を先に読んでみないか？」 　私は黙りこくったまま微動だにしない彼にそっと話しかけてみた。すると彼は驚いたように私の顔を見つめた。 　昨日の私の態度が少しは頭にあったようである。 「いいのですか？本当に。ご迷惑ではないですか？」 「私もワトスン博士が何故これだけ隠すように、箱の裏底にしまったかその理由を知りたいんだ。そしてこのセントクレア夫人にも興味があるし･･･｣ 　アッテンボロー氏はなつかしい誰かを思い出させるような笑顔を私に向けて、手袋を取ってその形のよい右手を差し出してきた。わたしもそれに答えて手についた埃を払い硬く握った。 「ありがとうございます。本当に恩に着ます。で、何時からはじめますか？」 「今夜からでも」 　私がそういうと彼はうなずいて、いそいで『ブリキの文書箱』の中身を整理し、私はその蓋に再び鍵をかけた。『ブリキの文書箱』を二人がかりで運びあげ、彼の自動車のトランクに積んだ。 　外はすで暗くロンドンの街の明かりがまるで漆黒のドレスを彩るチュールのように空を飾っていた。 　30分後、私たちは私の医院の２階にある形ばかり書斎の絨毯の上に『ブリキの文書箱』を下ろしていた。 　私は書斎机の上にある医学書･雑誌をわきに追いやり、ついでにその上に長々と寝ていたい猫―――ジェームズという―――を追い出し、埋もれていたノートパソコンを開いた。そして部屋の隅からもう一客椅子を持ってきて机の真正面においた。その間にアッテンボロー氏は例のスーツ･ケースから参考となるワトスン博士の直筆の原稿のコピーを取り出だす。 　私は『ブリキの文書箱』を開き、一番上においてあった「『唇の曲がった男』の覚書」を書斎の上に広げた。少し緊張ぎみのアッテンボロー氏が形よくウェーブのついた黒髪を手で梳きながら「The game is Afoot」とつぶやきながら椅子に腰をおろす。 　アッテンボロー氏が法廷でもよく響くであろう重々しいが通る声で、最初に『セントクレア夫人の手紙』を次に『覚書』を慎重に一文字一文字確認しながら読んでいくのを私はタイピングしていった。時々どうしてもわからないところがあれば２人で前後の意味を考慮しながら正確に写してゆく。 『覚書』の書き出しはワトスン博士が休暇でサセックスのホームズ氏を訪れ、休暇最後の日の夕べにあった出来事･･･ホームズ氏より『セントクレア夫人の手紙』を渡されたところからはじまっていた。 発表された『唇の曲がった男』の内容との相違点･その当時のホームズ氏の考え・そして驚くべき真実が記されていた。それゆえに他の事件とは違った意味で発表できなかったと･･･。 　すべてを読み終わったときは短い話にもかかわらず、まるで一日中山野を歩き回ったような疲労感と達成感が私たちを支配した。 　私は疲れを癒すため、書斎机の上に父譲りのサイフォン式のコーヒーメーカーをセットした。照明を少し落としてアルコールランプに火をつける。やわらかい光が殺風景な書斎をほのかに照らす。 　アッテンボロー氏はウォーミングアップのため、『手紙』と『覚書』を自分の座っていた椅子の上に置いた。すかさず今までかまってもらえなかった猫のジェームズがその椅子にすわった。猫が大事な原稿の上に乗ったのを見たアッテンボロー氏はホームジアンとして当然の行為として猫を追い払おうとした。知らない人間に突然自分の居場所を追われたジェームズは驚いて目の前の書斎机に飛び乗った。そして着地地点はコーヒーメーカーの上だった。 　ひっくり返るフラスコ、倒れる火のついたアルコールランプ―――炎の川となったアルコールの流れ行く先は―――机の前の椅子の上―――『手紙』と『覚書』の上だったのだ。 　またたく間に炎を上げ燃え盛る原稿、あわてた私たちは上着で消そうと試みたがときすでに遅く、『手紙』と『覚書』は灰と化してしまった。 　心の底に情熱を秘めながら、表面では生涯慎み深くあり続けたセントクレア夫人が持っていってしまったのかのように。 　私たちに残ったのは『手紙』と『覚書』の写し書きだけ･･･。猫は事の重大さを野生の感で察したかドアの隙間から出て行ったあとだった。 「すまない。アッテンボロー君。私がいつもの癖でこんなところでコーヒーを沸かさなければ、いや猫を部屋から追い出していれば･･･｣ 　しばらくあまりのショックから顔色は曇りの日の湖水のようになり、頭をがっくりと垂れていた彼はややたってから顔をあげて、悲しみと寂しさをない混ぜた哀れな表情をして私の目をみつめた。 「いえ、これも何かの宿命なのでしょう。セントクレア夫人の意思なのかもしれません･･･｣ 「これからどうするんだ？｣と私は残された『ブリキの文書箱』を手で指し示した。 「その『ブリキの文書箱』の所有権は貴方にあります。貴方の自由です･･･｣私は彼の細い肩に手を置き、できる限りやさしく言った。『ブリキの文書箱』の管理を君に任せると、そして２人で協力して他の『語られざる事件』を出版できるようにしようと。彼はまるで近くに雷が落ちたかのようにびっくりして私をみた。その顔は驚きと戸惑いに満ち溢れていた。 「僕に任せてくださると･･･？そしてこの僕に協力してくださると？｣ 「そう･･･最も大切な原稿を私の不注意から、この世から消滅させてしまった償いとして･･･｣ 　白い灰をかぶり上部が黒焦げの椅子を眺めながら言った。 「『手紙』と『覚書』の写しはどうしようか？｣と私が続けていうと。彼は少し考えて込んでから言った。 「他の原稿のように原文がありませんから、商業出版は出来ないでしょう････でも個人出版なら･･･｣ 「できるのかい？ ならそうしよう。そしてこの話に興味を持った人のみに配布すればいい｣ 　私のこの言葉を聞いた彼は少し元気をとりもどしたようだった。晩秋の遅い朝日がカーテンの隙間から彼の顔を照らした。 「個人出版にしましょう。そして貴方の言葉どおりにこの話に興味を持ってくれた人に読んでもらいましょう｣ 　私はノートパソコンの方を指差し、編集は私が責任を持ってやる事を約束し、彼には出版の手続きを依頼した。 　そして『ブリキの文書箱』を彼と共に彼の自動車のトランクにしまい、お互いの休日が合う日を利用して原稿の整理と解読に当てる事を約束した。自動車の運転席の窓から彼は身を乗り出して、幾分疲れてはいるが明るい表情で「では今週の土曜日に！」といって自動車をスタートさせた。 　私はこの歳になって新しい友人を紹介してくれたワトスン博士に感謝した。ホームジアンでない私は『ブリキの文書箱』にある「語られざる事件」の価値は見当もつかない。 　忙しい私たち―――弁護士の彼が忙しいのはもちろんの事、一見暇そうな開業医の私も博士号取得の勉強があるのだ！―――が全部仕上げ出版するのは、ワトスン博士のホームズ氏の活躍を粘り強く追いかけて綴ったその気質を私が受け継いでいるならば･･･、それはそう遠くない日であろう。