| 「唇の曲がった男」覚書 前編 |
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| 読者諸君へ 私はかの高名なるシャーロック･ホームズ氏の唯一の友人であった、ジョン・H･ワトスン博士のただ一人の血縁者かつ『語られざる事件』が納められている『ブリキの文書箱』の相続者である。 ワトスン博士の死後、私の祖父(ワトスン博士の甥にあたる)は博士の遺言――兄の子孫の最年長者のみ相続――に従い『ブリキの文書箱』を相続したものの、祖父は中身には何の興味も持たなかったらしく、そのまま取引銀行の金庫へと直行させてしまった。 その息子･･･私の父であるが、彼はホームジアンでもあり、大叔父たるワトスン博士を敬愛していた。 父は祖父が1942年に他界した時、父親を失ったという悲しみの中、その遺産目録を見たとき不謹慎にも歓喜してしまったという。目録の中にワトスン博士の死後、コックス銀行の金庫から行方不明になっていた『ブリキの文書箱』を発見したからである。 弁護士をせかし急がせて相続の手続きを取ったが手続きが完了した数日後『ブリキの文書箱』が保管されていた銀行がドイツ軍の空襲を受けた。だが父は被害状況の確認の出来ないまま戦地に赴かなければならなかった。 そして1945年戦争終結と共に祖父の取引銀行へ『ブリキの文書箱』を引き取りに行くと、行員から渡されたのは焼夷弾のために黒焦げになり、形さえも変形してしまった『ブリキの文書箱』だった。 鍵穴も歪んでしまったらしく鍵は通らず、中身の原稿も炭化しているようであった。しかし諦め切れない父は「ブリキの文書箱」を捨てずに屋根裏部屋に置き、1995年秋に亡くなるまでその鍵を常に肌身離さずもっていた。 眼科医だった父の後を引き継ぎ、小さな医院を開いていた私のところに、晩秋の夕方一人の法廷弁護士がやってきた。今は気のおける友人の一人となったアレックス・T・アッテンボロー氏である。 父に劣らぬホームジアンの彼は偶然顧問先の銀行から本物の『ブリキの文書箱』を見つけたのである。父に渡されたのは別の「ブリキの文書箱」だったのだ！ その『ブリキの文書箱』の蓋を開け、私たちと対面した原稿はたしかにワトスン博士の『語られざる事件』であった。が、私たちは他の原稿とは違う一通の手紙とブリキの底板の裏に隠されるように入っていた原稿を発見した。 手紙の受取人は消印の年月日からサッセクス在住のホームズ氏、差出人は『セアラ･アルタモント･セントクレア』となっていた。そして原稿の方は「『唇の曲がった男』の覚書」とタイトルが記されていた。 この手紙と原稿に興味を引かれた私たちは、その夜のうちに内容―――セントクレア夫人のからの告白・発表された『唇の曲がった男』との相違点･その当時のホームズ氏の考え・そして驚くべき真実が記されていた―――を読み、写しを作成する事を試みた。ところが写しが完成した瞬間、私の不注意から原稿と手紙を焼失させてしまったのである。 いったんこの原稿の出版を諦めた私たちだったが、アッテンボロー氏の案で個人出版の形で他の『語られざる事件』よりも一足早くこの「『唇の曲がった男』の覚書」出版することにした。 個人出版ゆえ冊数はわずかしか刷らず、この話に興味を引かれたホームジアンのみ配布するつもりである。真のホームジアンに何故この原稿だけが箱の底に隠されるようにあったかを知らせたい為でもある。 なお、他の『語られざる事件』は私とアッテンボロー氏と協力してお互いの休日を調整して整理、写しに当たっている。 臨床眼科学会々員 医学博士 チャールズ･H･ワトスン |
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| 「『唇の曲がった男』の覚書」 前記 この原稿を読みし我が血のつながりし者よ。もし原稿およびこれに付随する手紙を公表するならば、これらに登場する人物たちが生存している間はこれをかたく禁ず。 すべては我が友―――シャーロック・ホームズ君のために。 医学博士 ジョン・H･ワトスン |
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| 「ねえ、ワトスン君。今日221bを経由してこんな手紙が来たんだが、僕のボズウェルの君に是非読んでほしいんだ」 今日で私の短い休暇は終わり、明日は静かなホームズのサセックスの別荘と別れ、あの喧騒のロンドンへ帰らなければならない。少々憂鬱な気分の私の顔を暖炉の炎の揺らめきはやさしく照らしていた。そんな面持ちの私にシャーロック・ホームズは唐突に一通の手紙を差し出した。 私たちは暖炉の前に椅子を2つ並べ―――そうあのなつかしい221ｂの居間のように―――座っていたので私は少し腰を浮かし、彼の差し出す手紙を受け取った。時計はすでに11時を回っている。マーサ･ハドスン夫人はすでに寝室に下がり、私たちは勝手にウィスキーの炭酸割りを飲んでいた。酔いはまだ回っていない。 手紙は女性から来たものらしく封筒と便箋からかすかに白ジャスミンの香りがした。暖炉の熱のためかその香水の芳香は私たちを包む。いま時分女性からこのような手紙をホームズが受け取るなんて･･･私は驚きを隠せなかったが、彼はそんな私の反応にいたずらっぽい微笑を浮かべて、「差出人を見たら更に驚くと思うよ」と言った。 早速差出人を見ると私は彼の予想通りに驚いた。差出人は『セアラ･アルタモント･セントクレア』となっていたからだ。私が『唇の曲がった男』で発表した物語の主人公ヒュー･ブーンことネヴィル･セントクレアの夫人ではないか！ もっとも私は作品中に彼女の名は出さなかったが名前は覚えていた。 ホームズは安楽椅子から立ち上がり、酒の入ったグラスをマントルピースの上に置き、パイプに火をつけながらいった。 「すまないが、きみが昔よくやってくれたように声に出して手紙を読んでくれないか？さっき届いたばかりで僕もざっとしか読んでないんだ。確認のためにもね。」 私はそういわれ、自分ではあの頃よりは衰えたとは思わない声で手紙を読んだ。それは驚くべき内容だった。 シャーロック・ホームズ様 いつぞやは夫ネヴィルを捜して頂き、また事件を穏便に解決していただき感謝して おります。 あれから夫は私の父の醸造の仕事を手伝うようになり、父の亡き後は事業を引き継 ぎ、事業を大きくしてまた地元の有力者として活躍しました。 ただ時々遠くを見るような目がヒューン・ブーンとしての生活を懐かしがっている ようでした。 元気だった夫も先月流行り病であっという間に亡くなり、仕事は息子が引き継ぎま したが、夫のいない寂しさは日を追うにつれましてきます。 ・ ・ ホームズ様、もし私が「金の棒」でヒューン・ブーンに会ったときから、彼が夫だと見 抜いていた、と言ったら貴方様はどう思われるでしょうか？ そのようなことはありえないと？ ・ ・ 平凡だった私の人生でたった一つの冒険･･･ それをホームズ様やワトスン博士だけには伝えておきたかったのです。それでは最後 にアイリーン・ノートン様のお言葉にちなんで 人生の黄昏どきに---さようなら、シャーロック・ホームズ様 セアラ・アルタモント・セントクレアより 読み終えたとき私は驚きのあまり座っていた椅子から立ち上がった。それに対してホームズは驚いた風もなく悠然とパイプを燻らしていた。 「ホームズ！君はこの事実を知っていたのかい？」 私は久しく動揺などしたことのない心が騒ぐのを、持ち前の自制心を総動員して無理やり落ち着かせ彼に尋ねた。 するとホームズは言葉に出して答える代わりに、少々白いものも混じり始めた黒髪を撫でつけた、形のよい頭を振ってそれを否定した。そして安楽椅子に座り、足を足台の上に置きリラックスした面持ちで言った。 「この事件は今にして思えば大失敗のうちに入って、そして女性に再度だし抜かれた事になるね。アイリーン･ノートンはもうこの世にはいないから、彼女はこの世に存在する僕を出し抜いた唯一の女性という事になる。」 「なるって･･･。女性には厳しい君にしては随分寛大じゃないか･･･。どういう風の吹き回しだいホームズ？」 彼の意外な反応に私が冗談めいていうと、彼は顔を暖炉の方を向けその灰色のきらめく瞳をだけを私のほうに向け微笑みながら「そう。女性に関して僕は一度も信用した事もないし、愛した事もない。でも、ワトスン…」 私はこの言葉を聞いて、ホームズがアイリーン･ノートン以外の女性に興味を示す―――それが例え愛とよばれるものでなくても―――自分を出し抜いたセントクレア夫人に彼が特別な感情を抱いたのを面白く思った。 「そうだね。ホームズ･･･僕だって彼女にはじめて会ったとき、まさか彼女にこんな意図があったなんて読み取れなかった。まったく女心というやつは････」 ここまで私がいうとそれをさえぎるように、ホームズは静かにその視線を燃え盛る暖炉の炎に向け、ウィスキーの炭酸割りが入ったグラスを揺らしながら「彼女がはじめて221ｂへ事件の依頼に来た時、僕は正直言ってびっくりしたんだ。初めてあったにもかかわらず彼女の顔は僕のよく知っている女性にそっくりだったからだ」 |
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| 「僕が持っているたった一枚の家族の写真だよ、兄も一枚持っている･･･」 それからホームズは暖炉の方へ顔を向け、一度も私に視線を合わせぬまま、兄･マイクロフト以外の家族の話をセント･バーソロミュー病院の実験室で出会ったときから30年近く経ったいま、静かに語り始めた。 |
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