「唇の曲がった男」覚書　中編

「唇の曲がった男」覚書　中編
「僕ら兄弟の父の先祖は代々田舎で地主だったということは『ギリシア語通訳』事件のときに君にちょっと話したよね。父はその先祖の財産を元にして様々な事業や株式への投資を繰り返し、そのたびに失敗している人だった。　おまけに少々女性にもだらしない人でね・・・。兄の話だとそれでも母はそんな父を心から愛していたそうだ。　しかし父の日頃の行いをよく思っていなかった母の父、すなわち母方の祖父は父と折り合いが悪いうえ金銭トラブルがこじれ、ついには母を実家に呼び戻し父と離婚させてしまった。　兄のマイクロフトはすでに12歳になっていたから、この事を理解できたようだが、5歳だった僕には『母に捨てられた』と言う思いしか残らなかった。　兄が大学を卒業して役所に就職もきまり久しぶりに家に帰ってきた時に兄から母がケント州リーの醸造家と再婚したこと、そして娘を一人産んで名前に『セアラ・アルタモント』とミドルネームに僕らの父のミドルネームをつけたこと、そして１年前に亡くなった事など、はじめて詳しく母のその後を教えてもらった。　この事を聞かされた頃の家の中は廃人同様になった父と家庭教師・メイド数人・庭師・馬丁と今思えば悲惨な状態だったよ。でも兄から母の死を聞かされても僕は何も感じなかった………　15・6歳の僕にとってそれほど母は遠い存在だったんだ」　私は自分の幸せだった子供時代とあまりにかけ離れた彼のこの話に少なからず衝撃を受けた。そして度々彼の過去を知りたくて、話しを振っては聞き出そうとした自分の軽率さを恥じた。「それでお父上は････」「僕が大学２年の時亡くなった。父はすでに財産のほとんどを失っていて、負債の支払いをすると僕ら兄弟はわずかな遺品以外に何も受け継ぐものがなかった。そこでトレヴァー氏の勧めもあってこの職業を選んだというわけさ」　私が彼の過去の話を聞き言葉を失って黙り込んでしまったのをみて、ホームズは灰色の瞳に彼なりの優しい光をうかべた。「すまなかった。君を哀しい気持ちにさせるつもりはなかったんだよ･･･。この手の話はいくらでもころがっているものだし、今まで話さなかったのもやさしい君がどんな思いをするか予想がついたからなんだ。でも今夜はこれを話さないと先にすすまないからね」　そういうとホームズは椅子を私のほうに向けすわり、再びパイプに火をつけた。「彼女が事件を依頼に来たあの日、僕は外出中で帰宅するなりハドスン夫人から来客ある事を告げられた。聞いてみればもう1時間以上待たせているというじゃないか。　あわてて階段を駆け上り居間のドアを開けると、そこにはどこか懐かしい香りが微かに漂っていた―――白ジャスミン―――僕の頭の中にある遠い記憶がその香りの名前を教えてくれた。　僕がこの香りの記憶に少々戸惑っていると、ソファに座っていた彼女は振り返り立ち上がって会釈をした。　かすかに小首をかしげる面立ちをみて一瞬、神の戯れがなす偶然かと思ったんだ。　でもそれは偶然じゃなかった、行方不明になった夫の名前、簡単な事件のあらまし、そして彼女の名前を聞いてから僕は推理をするふりをして聞いてみたんだ「奥さんのご実家は醸造家ではありませんか？」と、もちろん彼女は驚いたけど僕も内心驚いていたんだ。　彼は一服煙草を吸う為にいったん言葉を切った。　煙草の香りが先ほどのかすかに残る香水の香りと混じり、私の鼻腔をくすぐる。私は顎の下に両手を組み、この場面を目をつむり想像した･･･。　懐かしい221b。今ここに漂う同じ香りが広がる居間。　夫の行方を知りながら同腹の兄とも知らずホームズに事件を依頼する女性。　そして妹と知りながら事件の依頼を受けるホームズ･･･。「で、君は妹とわかった時点でどうしようと思ったんだい？」「どうもしようもないよ。事件自体が面白そうだったんで引き受けたんだ。あくまでも事務的にね。221ｂのソファの上とスコットランド･ヤードと『金の棒』をめぐっていれば解決できそうな事件だったからね。　ところがその事を彼女につたえると、情報収集をするなら夫の財政状況や近所での交友関係を詳しく知る必要があるはず。ここでは詳細な事を話すのは無理だし、地元調査をするなら自分の家の客室を捜査の場所に提供するといってきたんだ。」　ホームズはここまで話すと、ふたたびリラックスしたかのように足を伸ばし足台に置いた。「彼女から依頼されたような成人男性の失踪事件に絡んでくるのはたいてい金か恋愛問題だ。失踪した理由を知るために住んでいた処を調べることは捜査の初歩なので、僕は彼女の言葉に甘えることにした。　ねえ、ワトスン。どうだいリーへ着いてから君とアヘン窟で出会うまでの僕の行動を推理してみてくれないかな？」　彼の突然の問いかけに、私は酒の入ったグラスを傾け少々考え込んだ。　事件の真っ只中にいる彼はいつもどうしていただろうか？そしてこの事件のとき彼は私にどんな情報を与えてくれただろうか？目をつむり思い返してみる。　耳に入るのは時計が正確に時を打つ音と、暖炉の薪がはぜる音だけ･･･。　一通り考えがまとまると、私は目を開け興味深くこちらを見ている彼の灰色の瞳をみた。「そうだね･･･。いつもの君ならまずセントクレア夫人に、彼女が知っているかぎりの夫についての話をこと細かに聞くだろう、そして財政状況をしらべるため銀行の通帳や借金の証書を見せてもらう･･･、確か君はあの時正確にセントクレア氏の貯金と負債の金額を述べていたよね･･･そして彼の人柄は本当に夫人の言葉どおりかを近所へ･･･パブを中心にかな？聞き込みにまわる･･･。そして事件現場へ行って、そう！それを見た人が怪訝な顔をするほど念入りに調査するだろ･･･。ああでも今回はそれが後になっていたよね。そして僕とアヘン窟で会った。　そしてスコットランドヤードに行って担当の警部から当時の状況を聞きだし、『ボスコム谷の謎』と同じように拘束されている容疑者に直接会って･･･」　そこまで述べて私は気がついた。　夫人も不満を漏らしていたように、ホームズは拘束されていたヒュー･ブーンことネヴィル･セントクレア氏に直接会っていないのである。「ホームズ･･･事件が発生したのは月曜日の16時35分過ぎ。セントクレア夫人が事件の依頼来るのは遅くても次の日の午後だろ？そして事件が終わったのが土曜日の朝だ、セントクレア氏に合う時間は充分あったはずだよ。何故彼にあわなかったんだい？」　ホームズは私のその質問に春風に吹かれた時のような心地の良い笑顔して「すばらしい！我が友ワトスン。しばらく離れていようとも推理能力の伝染力は衰えていなかったいうわけだ。でも残念だけど少し事実と違う点があるけれどね。さっき彼女が来たとき僕が外出中だったと話しただろう？実は僕は君が彼女と会ったという火曜日はベイカー街にはいなかったんだ。　あの不思議かつ奇怪な事件。君が『バスカヴィル家の犬』という題名で発表した事件で、僕が立ち寄ったメッセンジャー会社の支配人を覚えているかい？」｢もちろん覚えているとも！確かウィルソンといったね。事件にまきこまれ名誉を救ってくれたといって君に感謝していた人だ｣　彼は私の即答に満足したかのようにゆっくりと頷いた。｢事件としてはありふれたものだったから君には言っていなかったんだが、ウィルソン氏はもともとノーフォークの出身でね。休暇を取って年老いた両親の元に帰省したとき、彼のロンドンでの成功をねたんだ隣人によって盗難事件の犯人に仕立て挙げられてしまったんだ。　途方にくれた彼は僕に助けてくれるように依頼してきた。僕も彼のメッセンジャー会社をよく利用していたし、彼の人柄を知っていたから急遽、彼の会社で一番利口なカートライトをともなってノーフォークへ向ったんだ。でも解決に少々時間がかかってね…。ロンドンに戻ってきたのが丁度彼女が訪れた木曜の夕方になってしまったんだよ｣　木曜の夕方！それまで夫の無事は分かっているものの、ホームズの帰りを千秋の思いで待ち続けたセントクレア夫人の心情はいかばかりのものであっただろう。「『杉屋敷』に到着した後、彼女から詳しい話を聞いているうちにヒュー・ブーンとセントクレア氏は同一人物ではないか言う推測が成り立ち、初動捜査の遅れの心配はないことが判った。　僕はシティで度々ヒュー・ブーンを見かけ観察していたわけだが、実は彼のその醜い容貌が変装であるという事はとっくに見抜いていたんだ。他の連中には分からないようだったが、会うたびにその大きな傷の位置が微妙にずれていたからね。　でもまあ軽犯罪法には引っかかるだろうが、物乞いはそう大層な犯罪ではないし，商売の邪魔をしては野暮だと思ってそのままにしておいたんだが…。　そして翌日主任警部のバートンにあって調書に目を通して、それは確信へと変わったんだ。　だから彼に会う必要がなかったんだよ」　彼の意外な答えに私はびっくりした。あまりの驚きに椅子から身を乗り出し、その拍子に椅子がサイドテーブルにあたり上に置いてあったグラスを倒しそうになったくらいに。「僕とアヘン窟で会った時にはすでに分かっていたっていうのかい？」　ホームズは微笑みをたやさずに、しかしその瞳はどこか遠くを見るようにしていった。「たしかにセントクレア氏＝ヒュー･ブーンと確信していたから会わなかったけど正確にいうとね。彼と留置所で会って彼の秘密を明かし、語り合う時間がなかったんだよ」「会っている時間がなかった？そんなばかな！いつもの手際の良い君らしくないじゃないか。金曜日の朝にリーを発てば余裕でセントクレア氏に会えたはずだ！」　私の言葉をさえぎるように形のよい左手を上げた彼は、今までごくたまにしか見せた事ない悲哀に満ちた瞳を私にむけた。「実は僕がリーを発ったのはお昼近くになってからなんだ…」「それでは・・・」「金曜日の朝、聞き込みに行くと言って出かけた僕は、彼女に何気なく聞いた彼女の実家を遠くから眺め、よく彼女が母親と散歩したという小道を歩き、ときどき一人物思いにふけっていたという菩提樹の木の下に向った。そして最後は教会へ･･･。　そこで僕がしたことは、たまに兄との話題に上るときさえ『あの女』としか呼んだことのなかった母の墓石のそれに書かれた名前をなぞる事、散策の途中で手折った野薔薇一輪を手向け、しばらくその前にたたずむ事だけだった。　鳥のさえずりで我に返った僕は懐中時計をみて11時を過ぎているのに驚き、急いで『杉屋敷』に戻り彼女に『今からスコットランドヤードにいってくる、帰りは遅くなるが朗報を持ち帰る事が出来るだろう』と告げ急いでロンドン行きの列車に乗り込んだ。　そう僕がいったとき、彼女がうれしそうな顔をしていた･･･まさか僕は彼女が最初からそのつもりで僕に依頼したとは思わなかったから、単純に僕に期待しているだけと思っていた･･･というか今まで感じた事もない、説明のつかない気持ちで胸がいっぱいになってそこまで考えが回らなかったんだけれどもね」　私が半世紀ほど前に当たり前のように充分に受けた『それ』をホームズは生者からではなく、死者から受けた事を理解できた私は彼の告白に沈黙で答えた。