「唇の曲がった男」覚書　後編

「唇の曲がった男」覚書　後編
私はグラスにわずかに残っていたウィスキーをあおると、話を元のセントクレア氏行方不明事件の話に戻した。「だからスコットランド・ヤードにいた時間が短かったんだね。でも何故アヘン窟へ？　セントクレア氏の正体は分かっていたのだから、スコットランド・ヤードに事情を話してセントクレア氏を釈放して早急に夫人の元へ帰すべきだったんじゃないのかい？･･･」　ホームズは瞳にかすかな微笑をたたえ、私のささやかな疑問に答えてくれた。「セントクレア夫人のためさ。夫が行方不明で心労が重なっている彼女に、貴女の夫は実は物乞いが本業で、間違って警察に拘束されていたのです。と、正直にいうわけにもいかないし、かといって何も言わずにセントクレア氏だけを連れてきて、はい、さようならではだめだろう？　まあ実際にはそれに近い結末で終わったわけだけれども。　何か他にいい理由がないか、頭の良い彼女に納得してもらえる内容を―――実際あのアヘン窟の主人は証拠こそないが、実際殺人を請け負っていたという裏情報を握っていたからね。　僕が最初考えたシナリオは、アヘン窟に潜入してあの主人の殺人の証拠をつかみ、それをスコットランド・ヤードに通報し逮捕してもらう。そして彼女には『セントクレア氏はアヘン窟の主人の指示を受けたヒュー･ブーンに襲われ、服と金品を奪われ首を絞められ殺されかけたが、死に至る前に警察が突入した為、時間がなくて意識不明のまま裏の落とし戸から落とされた。しかし昼間だったせいもあり運良く近所の住人に発見され保護されていた』と話す。　スコットランド・ヤードには情報を流した見返りとして、夫人への報告の口裏合わせと新聞社へヒューン･ブーンに関する偽情報の提供、そしてセントクレア氏を秘密裏に留置場からだしてもらう･･･というものだったんだ。　アヘン窟の主人とヒュー・ブーンの事を新聞で読めば、夫人も夫の行方不明の理由に納得してくれるだろ？　そして僕はアヘン窟へ証拠を探るため潜入した」　そこまで彼は話すと喉をしめらすため酒をわずかに口にふくみ、私は安楽椅子に深く座りなおした。｢そこへ偶然ホイットニー氏を捜しにきた僕とあったわけだね。でも何故僕を『杉屋敷』へさそったんだい？　しかも僕に真相はまだつかめてないといったり･･･｣　ホームズは私の言葉に急に落ち着かない様子となった。胸の辺りで組み合わせたほっそりとした指をせわしなく動かしながら、眉間に軽くしわを寄せた。　｢アヘン窟で君と会った時、すぐにつかめると思っていた殺人の証拠が全くつかめなくて、そろそろ引き上げようと思っていたんだ。しかし前日に彼女にああいった手前『杉屋敷』に一人で行く気が起きなくてね。　するとそこへ君が来てくれたんだ。真相を君に話さなかったのは悪かったと思っている。でもどうしても君に『杉屋敷』に同行してもらうためには、君が興味を持つような事を話さなくてはならなかったんだ」　その気弱にもとれるホームズの言葉は、日頃の彼からは想像できないものだった。いつもの彼ならためらうことなくアヘン窟を抜けてセントクレア夫人に報告に行っただろう。　やはり彼女は彼の心の中では他の女性と違ったのだ、例え彼がそれを自覚していなくても。「それにしても、彼女がセントクレア氏の生死を君に問うたとき、『ほぼあきらめています』なんていったんだい？　まあ、実際には彼女は夫の所在は知っていたわけだけれど、もし、知らなかったとしたら期待を持たせといて随分ひどい言い方だと思うよ。」　私はその時に真実を話してくれなかった罰として、彼に少し意地悪い質問をした。　さすがのホームズもこれには困ったようだ。少し間をおいて苦笑しながら｢彼女が物怖じしない理論整然とした女性だと思わなかったんだ。最初221bであった時やセントクレア氏の事を聞いたときは、他の中産階級の女性と変わらないおっとりとした物腰だった。　ところが到着して僕がセントクレア氏ではなく、君を連れてきたと知ると、いきなり夫の生死について聞いてきた。　この質問を予期せず答えを用意してなかった僕は、うかつにも彼は死んでいると答えてしまった。手紙を渡し方にしても他の同じ階級の女性だったら、何も言わずに真っ先に僕に渡すのが普通だ。　それなのに彼女はまるでいたずらっ子のように、一通り僕の話を聞いてから夫の手紙を渡してきた。まあ、当時彼女としては僕に早く夫を留置場から出して欲しい一心で、このような行動にでたのだろうだけどね」　私は彼女が確かに他の女性と違う性質を持っている事を認めた。　内面を映し出す鏡に出会い動揺しながらも、セントクレア氏の本当の仕事を彼女に知られないようにと考えているホームズ、そして本当の事を知っていると言えないセントクレア夫人……… 　私は当時のホームズとセントクレア夫人のそれぞれの思惑のすれ違いを考えた。｢だから『指の傷あと』に注目させるために，彼女は心の交流という言葉を使って君に食い下がってきたんだんね｣｢そうだねワトスン、君の言うとおりだ。そしてあの後僕はこれからどうするべきか、シナリオの変更を考えなければならなかった｣　あの時私は早々に寝てしまったが、彼はパイプを一晩中やりながら考え込んでいた。　それはシナリオのことだけだったのだろうか？　でも私はそれを尋ねることはしなかった。そして空が白らむ頃、これ以上セントクレア氏を留置所にとどめておくのは、夫人のためによくないと判断したのだろう。彼はセントクレア氏の正体を我々前で華麗に暴いて見せた。　『唇の曲がった男』には物語の構成の関係上書けなかったのであるが、実は我々はベイカー街へは戻らず、セントクレア氏を馬車で彼の妻の待つ『杉屋敷』まで送り届けた。帰りの馬車の中でホームズはセントクレア氏に、二度とヒュー･ブーンに戻らない事を条件に夫人への言い訳を伝授していた。『貴方の失踪で心身ともにつかれている奥さんにはショックを与えぬよう。ヒュー･ブーンである事をしばらくは黙っていること。永遠に黙っていてもかまわない。　アヘン窟にいた理由は、事業に失敗して、ひと時の夢を求めて通い始めたというのがいい。　人事不省の時アヘン窟の主人に命令されたヒュー･ブーンに奪われ服や金品を奪われた揚句、死体を落とすための裏の落とし戸に落とされたが、運良く近所の住民に救われた。手紙はその時住民に出してもらったものである。　殺されかけたショックでしばらく動けなかったが、やっと今朝動けるようになったのでスコットランド・ヤードにおもむいたとき偶然僕達とあった』　そしてただしと付け加えた。　『奥さんは頭の良い方だ、警察からアヘン窟の主人やヒュー･ブーンの逮捕の話も来ないし、新聞にも載らない事を不信に思うことがあるかも知れない、もしそれに関して問い詰められたら、その時は仕方がないから正直にいうこと』と。　ホームズと私はセントクレア氏を『杉屋敷』に送り届けると、そのままロンドンに戻った。　玄関まで見送りに出てきたセントクレア夫妻に彼は一瞥をして、そのまま振り返らずに馬に鞭をくれた。　それ以来彼は母を同じとする妹に二度と会わなかった。母親と同じ顔を持つ女性に･･･。　気づくとホームズはセントクレア夫人の手紙を、あの日、墓石のそれに書かれた名前をなぞったように愛おしそうに一字一字読み返しているようだった。私はそんな彼にもう疲れたからと言い残し寝室へむかった。時計の針は真夜中の2時を回っていた･･･。　翌朝、私は9時過ぎに起床した。ロンドンに帰ればこのような朝寝坊はもう出来なくなる―――わが妻は自分が6時に起きる時ついでに私も起すからだ！―――。　ゆっくりと身支度をして食卓につくと、ホームズは私よりも少し早く起きて相変わらずドレッシングガウンをゆったりと着こなし、今朝届けられた新聞を読んでいた。私が席についたのを見計らってハドスン夫人が、昔のように朝食を運んできてくれた。　キッチンからは私の好物であるが、結婚のためベイカー街を離れて以来口にする事のなかった、ある食材のいい匂いがしている。　私の前に置かれていく数々の朝食の中にそれはあった。ハドスン夫人特製の『チキンカレー』である。「さあ、ドクター。休暇最後の朝食をお楽しみください！」　彼女はそう微笑んで私のためにチキンを取り分けてくれた。私は半分冗談めいて「ハドスンさん。まさか『海軍条約』の時のように、昨日がチキンの特売日で買いすぎたから、朝からこんな豪華なメニューじゃないだろうね？」　ハドスン夫人は私の言葉に憤慨した様子もなく、すでに真っ白になってしまったがきれいに結い上げられた小さな頭を振って答えた。「違いますよ。ワトスン先生。ホームズさんがおっしゃったんです。休暇中まだ、彼の好物の『チキンカレー』が食卓にあがってませんよって。私だって忘れたわけではないんですよ。ただ一番美味しいものは最後にお出ししたほうがいいと思いましてね」　彼女はそういってにっこりわらって、キッチンにさがっていった。　最後の彼女の台詞は私の母がよくしていた口癖そっくりだった。私はその言葉を待ちきれずよくつまみ食いをして、手をたたかれたものである。　すでに食事を済ませたホームズは朝のコーヒーを飲みながら、私たちの会話を新聞の影からゆかいそうに眺めていた。　あの輝かしい日々にもどったようだった…。　昼まえ、私はロンドンへ帰るため駅のプラットホームにたっていた。ホームズはいつもの様に見送りに来てくれていた。　列車が来るのを待つ間、彼は遠くに見える蒸気機関車の煙を眺めながら私に尋ねてきた。昨日自分が語った話をどうするかと―――わたしの答えはきまっていた。「記録としては残しておくけど、他の公表出来ない事件と同様にコックス銀行の私の文書箱に入れて置くよ。彼女に真実を知らせたくない君の意思を尊重してね。」　彼はいつものように言葉に出して礼は言わなかったが。その灰色の瞳に感謝の色がうかがえることを私は見逃さなかった。　遠くに見えていた煙がやがて近づき列車は駅に入ってきた。私は列車に乗り込みホームズに別れの挨拶をするためにコンパートメントの窓を開けた。　彼は列車の窓枠に手をかけて私の目をまっすぐ覗き込んだ。「ワトスン、僕は少したったらしばらくの間アメリカへ旅行に行こうと思うんだ。かなり長期間になると思う。手紙・電報は別荘宛に出してくれれば、ハドスンさんが僕に転送してくれるだろ。　僕がいなくても彼女がいるから、休暇の時は奥さんと一緒に僕の別荘を使ってくれたまえ。あとあの蜂たちもたまにはかわいがってくれよ。」　私は気軽に長期の旅行ができる彼の身軽さをうらやましがりながら、短いがしかし最大限の思いを込めて｢ありがとう｣と返事をした。　それと前後して駅長が出発の合図をだす。　するとホームズはつぶやくようにこういった。言葉のすべては発車と同時に響きわたる車輪の空回りする音のため聞き取れなかったが「･･･偽名は、「アルタモント」にしよう･･･」と　私は謎めいた言葉を確認するためにもう一度彼に問い掛けた。　しかし彼はそれには答えず、発車する列車の窓から静かに手を離し私に向って大きく振った。わたしもそれに応えた。　列車は徐々に加速し、やがてホームズの姿は私の視界から消えた。　私は床に置いてあった荷物を網棚に載せコンパートメントを一人独占しながら新聞を広げた。　その内容はホームズだったらまったく興味を示さない内容―――わが国におけるドイツ帝国の脅威と今月の10日に1500人以上の死者を出したタイタニック号沈没事件の続報だった。私は最近新聞をにぎわしているこれらの記事から目を離し、後方に流れてゆくのどかな田舎の風景を名残惜しく眺めた。(了）