バスカヴィル家の鶏

「バスカヴィル家の鶏」
第二章　バスカヴィル館での出来事　遂にバスカヴィルの館へ向う日がやってきた。ホームズは私に正確な報告をよこすように指示を出し、バスカヴィル館の近所の住人についても教えてくれた。｢モーティマー医師は信用してもよかろうけど、その夫人がどんな人かわからない。近所の鳥類研究家のステープルトン兄妹の妹の方は美人だそうだ。最後にラフター邸にフランクランドという地主がいる。以上は特に注意深く観察してくれなきゃならないね｣　ヘンリー卿たちは一等の切符を買って待っていてくれた。あれから不思議なことに片方だけ無くなったヘンリー卿の靴はいつの間にかドアの前においてあったという事だ。　汽車の旅は快適であった。私は二人の新しい友人と親密になり、モーティマー医師の名古屋コーチンとも仲良しになった。　汽車はやがてさびしい田舎の駅に止まり私たちはそこで下車した。馬車に乗り込んでしばらくすると沼沢地の荒れ山の頂上に騎馬の兵士が､銃を持って立っているではないか！　御者に訪ねてみると､陰惨な「鶏惨殺事件」―――ノッティング･ヒルのチキン・キラーことセルデンが監獄から逃げだしたと言う話であった。馬車はやがてバスカヴィルの館へ到着、モーティマー医師は養鶏場が心配だと言って自宅に帰った。　その日の夜は大変疲れたので早々にベッドに入ったが神経が高ぶって寝られない。するとどこからともなく、お約束のように女のすすり泣く声が聞こえてきた。　ベッドからおきて枕を抱え、しばらくじっと耳を澄ましてみたがピタッとその泣き声はやんでしまった。聞こえてくるのは時計の音と蔦が風にそよぐ音だけであった…。
翌朝、朝食の時ヘンリー卿に夕べの女の泣き声についてたずねてみた。するとやはり卿も聞いたという、あれは空耳ではなかったのだ。執事のバリモアに聞いてみると知らないという。しかし彼はウソをついていたのだ。廊下でバリモアの細君とすれ違った時、一晩中泣いたのであろう彼女の瞼は腫れあがっていたのだ。何故彼はうそをついたのだろうか？　さて午前中、ヘンリー卿は色々な書類を見なければならなかったので私は外出をすることにした。色々な出来事を考えながら歩いていると､後から誰かが声をかけてきた。モーティマー医師かと思って振り返ると見知らぬ男が立っている。　小柄な男で亜麻色の髪をした三十代の人物だった。グレーの服に麦わら帽子、大きな網の袋を肩からつるし､緑色の大きな網を手にしている。彼はメリピット荘のステープルトンと名乗った。そして私を家に招待するという。私はヘンリー卿のことを思い出したが､まあ少しぐらいはと思い、ステープルトンの招きを受けることした。　目の前には沼沢地が広がっていた。ステープルトンは草が勢いよく茂っている所を指さし、それがグリンペンの大底なし沼である事を教えてくれた。「おや！あれはなんでしょう？」　私は思わずさけんだ｡　長く低く、何ともいいようのない鋭い叫び声が､どこからともなく聞こえてきたのである。｢沼沢地はまったく不思議なところですよ｣｢でも何でしょう､あれは？｣｢ここに住んでいる者は『バスカヴィルの魔の鶏』が時を告げる声だと言っております｣｢まさかそんな事を信用なさってないでしょう？｣｢ワトスン先生、あなたはウコッケイという鶏が鳴くのを聞いたことがおありですか？｣｢いいえ､ありませんね｣｢珍しい鶏でして､イギリスではほとんど絶滅したといってもよいですが､もしかしたらそのウコッケイかもしれません。あっちょと失礼、またにげだしたな！あれはモーティマー君の養鶏場の鶏です｣　私たちの目の前を一羽の鶏がコッコッコと歩いてゆくのがみえた。　ステープルトンは網を振りかざしてそのまま沼沢地へと逃げた鶏を追いかけていってしまった。 (彼は鳥類学者の経歴をいかしモーティマー医師の養鶏場の脱走鶏を捕まえるアルバイトをしているようだ）　すると小道づたいに一人の女がやってくるのがみえた。その美しい容貌から話に聞くステープルトンの妹であることがわかった。　会って早々彼女は意外な事をいった。｢お帰りになって、すぐロンドンへお帰りになって｣｢なぜ帰らなきゃならないのですか？｣｢あなたのためを思って申し上げているのです。どうぞロンドンにお帰りなって！あっ兄がこちらに参ります。今申し上げたことは兄にはおっしゃらないでくださいね｣
そのあとステープルトンは彼女を妹であると紹介してくれたが、彼女は私が準男爵でないと知るとうろたえていた。再び現れた鶏をステープルトンが追いかけている間に、私は彼女に何故あのような事を言ったのか聞いてみたのだが､ただ魔鶏の呪いを信じているからというだけでそれ以上の事は答えてくれなかった。　私は漠然たる不安にみたされて､バスカヴィルの館へ帰っていった。第三章　ワトスンの報告　これから先は私がホームズに送った手紙を書き写したものを読者諸君にお見せしよう。　一枚だけ紛失しているが（ホームズが言うには、間違えて焚き火の付け火に使ってしまったらしい(怒)）　まあ何とかなる。十月十三日　バスカヴィルの館にて親愛なるホームズ君へ　この二、三日何の音沙汰もなかったのは､あれから今日まで何も書くことがなかったからであって、怠けていたわけではない。私たちが到着した次の日ステープルトンは早速バスカヴィル邸にやってきた。彼はしばらく沼沢地を案内したあと私とヘンリー卿とメリピット荘へ昼食によんでくれた。昼食のメインはグリンペン名物モーティマー医師の養鶏場直送の卵料理であった。ところがこのあとちょっとしたハプニングがあった。　昼食を取った人たち全員サルモネラ菌による食中毒を起こしたのだ！　往診に来てくれたモーティマー医師によると最近グリンペン周辺で多発しているとのことだった。ちなみに私は平気だった。インドやアフガニスタンで鍛えてきたからね。　こんな大変な状況の中ヘンリー卿は昼食会の席で初めてあったベリル･ステープルトン嬢に一目ぼれしたらしい。　おかげで｢決してヘンリー卿のそばを一刻も離れるな｣と言う君の注文が私にはきわめて荷の重い仕事になってきそうである。（ホームズ･･･デートの時もそばを離れちゃダメなのかい？これで私の人気が落ちたらと思うと気が気じゃないのだが･･･）　前の報告を出した後で、またまた新しい人物にあった。ラフター邸のフランクランド老人だ。訴訟マニアで村中から嫌われている。しかし私は君と付き合っているせいもあって､この程度の人物にはびくともしない。　さて本題に入ろう。バリモアとその細君の事だ。彼女は私が到着してから度々夜中に泣いているようである。前々からバリモアには不に落ちない点が幾つかあったが、一昨夜の一件はその疑いをいっそう深くさせるものだった。　私は夜あまり熟睡できない習性なのに最近ますます眠りが浅くなってしまった。夜中の2時ごろの事、私は寝室の前を通る足音で目が覚めた。そっと見てみるとなんとバリモアではないか！彼の後をついて行くと現在は使われていない部屋に入っていって､しきりに沼沢地に向けてロウソクの明かりをかざしている。ヘンリー卿にこのことを伝えておかなくてならない。　次の便の手紙を楽しみしてくれたまえ。十月十五日　バスカヴィルの館にて親愛なるホームズ君へ　次の朝私はヘンリー卿に夜中に発見したバリモアの謎の行動について言ってみた。しかしヘンリー卿もこのことを既に知っていたので、今夜その謎の解明についてバリモアを見張ることに私たちの意見はまとまった。　この後ヘンリー卿が出かけようとするので､私もお供しようとするとこれからデートへ行くからと暗にいわれてしまった。私が少々ためらっているうちにヘンリー卿は行ってしまった。　しかし考えてみるともしこの間にヘンリー卿に何かあったら君に合わせる顔がない、君のことだから一生いやあの世に行っても言いつづけることだろう。それは勘弁願いたいので私は急いで彼の後を追いかけた。やはり彼はベリル嬢とデートの最中だった。　最初二人はしきりに何かを語りあい､そしてヘンリー卿はベリル嬢を…おお！と思っているところに邪魔が入った。なんと彼女の兄ステープルトンが網を振りかざして､二人を引き離し､そのままベリル嬢を連れて行ってしまったのである。　しょんぼりとしたヘンリー卿がこちらに向って歩いてきた。私は卿になぜ後をつけたか理由を話した。最初はむっとしていたがしまいには同情してくれた。やがてヘンリー卿は淋しそうに、二人の間でかわされた会話を語り始めた。ヘンリー卿は彼女に結婚を申し込んだのだ。（人の事はいえないが、ずいぶんせっかちな人だ！）　ところが彼女はそれを断り､さらに兄ステープルトンもどういう訳だか猛反対だったというのだ。　そこから先は困った事に恋愛相談室なってしまった。｢四つの署名｣で「三つの大陸の女性を知っている」なんて豪語しなければ良かった･･･。　しかしこの問題も午後には解決した。ステープルトンが謝りに来たのである。3ヶ月待ってくれれば心の整理がつくのでヘンリー卿の妹への求婚を承諾したのだ。　一つの問題が片付いた所で､もう一つの問題がまだ残っていた。バリモアの謎の行動である。　1夜目は何事も起きずに終わってしまったが､2夜目それはおこった。私とヘンリー卿は卿の部屋で眠らないように、がんばっていたが2時ごろ足音が聞こえた。こっそりドアの隙間からのぞいて見ると、やはりバリモアあった。空き部屋に入って沼沢地に向ってロウソクの明かりで合図を送っているのだ。実直なヘンリー卿はそのままバリモアに詰めより問いただした。しかしバリモアは理由をいわない。するとそこへ彼の細君がかけよってきて驚くべき事実を語った。彼女はかのチキン・キラー・セルデンの実の姉で、バリモアは妻の頼みでロウソクで合図を送り、沼沢地に身を潜めている義弟に食料を渡していたのだ。　ひとまずバリモア夫妻を部屋に返すと､私とヘンリー卿はセルデンを捕まえに沼沢地へと出かけた。　しばらく行くと私が以前聞いた異様なさけび声が聞こえてきた。｢いったいあの叫び声は!？｣｢私も知らないのです」｢ワトスン先生､あれは鶏の鳴き声ですね｣ヘンリー卿は声がかすれるほど震えていた。｢皆はあれを何だといってます？｣｢何故村人のうわさなど･･･｣｢教えて下さい｡何と言ってますか？｣｢世間ではあれを『バスカヴィル家の鶏』の時を告げる声だと言っています｣　ヘンリー卿はすっかり怯えていた。あまり怯えていたので帰ろうかと提案したが、彼は勇気を奮い立たせセルデン逮捕に意欲を燃やした。しかし鶏を追いかけるのに鍛えられたセルデンの足は速く捕まえる事ができなかった。　その帰りがけの事だった。月光を背に浴びて墨絵の影人形の様に一人の男が岩の上につっ立っているを見つけた。　明らかにセルデン以外の男である｡今度は私が恐怖におののく番だった。男は忽然としてかき消すように見えなくなった･･･。　以上が昨夜の冒険の顛末だ。私としてこの地の出来事を細大漏らさず君に報告することだけだ。まだまだ未解決な事がたくさんある。最善の解決策は一日でも早く君自身がこの地にきてくれることだ。　さてこれからはホームズへの報告では足らない部分を私が書いた日記から物語を綴る事にする。