「バスカヴィル家の鶏」 　　　 第八章　追想 　話は前後するが、最後の翌日私たちはベリル嬢に案内され沼沢地にあるステープルトンの隠れ家にいった。私たちは彼女を沼の端において泥沼の中に踏み込んだ。泥の中に足を踏み込んだ時は、何か怪しい魔の手が底知れぬ泥の中へ引き込むようなとでも言うか、なんともいえぬ気味悪さを感じた。 　しかしこの危険な道を、最近何者かが通った形跡が、たった一ヶ所だけある。その足跡をたどっていくとブツブツとつぶやく声が聞こえてきた。ふと見ると向こうのワタスゲの草むらに、何やら白い巨大なものが引っ掛かっている。私たちがそっと近寄ると、その声は段々はっきり聞こえてきた。 「皆して、あんなに腹抱えて笑い転げやがって。俺は、恐怖の余りショック死させる積りだったのに！くっそ〜、こんな事だったらジパングのトーホーか、ツブラヤという業者に発注すりゃあよかったなあ」 　なんと声の主はステープルトンだったのである！ 　巨大な着ぐるみのおかげで、浮力を得ていたため大沼に沈まずに浮かんでいたのだ。 (私だったら恥ずかしくてそのままにしてもらいたい･･･) 　しかし彼は犯罪者ではあるがこのまま放置しておくわけにはいかない。 　まさか私が助けに･･･と思ったら、物好きにもホームズがその役をかってでてくれた。 　ホームズはそれをつかもうとして、腰のあたりまで泥の中にはいりこんでしまった。 　私たちがそばにいなかったら、彼は永久にこの泥沼に吸いこまれていたに違いない。ステープルトンは着ぐるみを着たままレストレードに連行されていった。 　十一月の末のある霧の深い夜である。ホームズと私はベーカー街の例の一室で、気持ちのよく燃え盛る暖炉を両方から挟んで座っていた。あれからホームズは色々な事件を解決しご機嫌だった。そこで私はあのバスカヴィル事件に関する細かい説明を聞く事が出来たのである。 　説明を聞く前に私はサルモネラ菌食中毒の原因は患者があまりいないグリンペンで、一稼ぎしようとするモーティマー医師の仕業ではないかとホームズに言ったのだが、そのときホームズの表情がさっと変わったが素知らぬ顔で、 「ああ、あの事件のいきさつかい？」ホームズは燃え盛る暖炉の火を眺めながら言った。 「覚えているだけでいいから、一通り話を聞かせてくれたまえ」 「いいとも、まずステープルトンだが、やはり先祖の肖像画は偽らなかった。調べてみたらステープルトンはチャールズ卿の弟ロジャーの息子で、名を父と同じロジャーといった。コスタリカでガルシアと言う美女と結婚したが、相当の公金を横領して名をヴァンデリュルと変えて、イギリスに逃げ帰りヨークシャーでダチョウ牧場をはじめた。しかし十分にエサをもらえていなかったダチョウが従業員を蹴り殺すという事件がおきたため、夫婦相談のうえまたしても名をステープルトンとかえ余財をまとめかの地へきたのだ。 　もちろん彼は自分の家系について色々調べてみて二人の人物―――チャールズ卿とヘンリーというものが無ければあの大きな資産と領地は自分のものになると知ったのだ。 　そしてステープルトンはチャールズ卿から『バスカヴィル家の鶏』の物語を聞き、老卿の心臓が大変弱い事を知リ、少しでも驚かしてショックを与えれば容易に殺せると見抜いたのだ。 　そうと決まると、きわめて手際よく実行にかかった。まず最初、妻に巨大な鶏の着ぐるみを作らせることにしたが出来たものは、鶏とよぶには到底及ばない代物だった。怒ったステープルトンは妻を虐待した。これでは埒があかないのでローラ・ライオンズに頼んで巨大な鶏の着ぐるみを作ってもらったわけだが―――その出来はあの沼沢地でみたものだったわけだ。 　そしてローラ･ライオンズに命じて無理やりチャールズ卿をおびき出し、あの着ぐるみを着て追い掛け回したわけだ。ああいう不細工な着ぐるみが急に飛び出してきて、後を追われてみたまえ、チャールズ卿でなくたって爆笑してしまうよ。それで並木の端まで逃げて遂に倒れたのだ。 　次にヘンリー卿を殺すためにロンドンへむかったのだ。そして靴を手に入れ自分で開発した特殊が燐をつけて戻しておいた。夫のことを疑いつつも恐れていた彼の妻は夫に累を及ぼさない範囲で出来るだけヘンリー卿に警告を与えようと考え、再三それを実行に移した。」 「ところでホームズ、ヘンリー卿はチャールズ卿と違って、お化け鶏を見ただけで生命を落とすと思えないがどうだろう？」 「ライオンズ夫人から聞いたところ、あの鶏の着ぐるみのクチバシにはナイフが仕込まれていたそうだ。着ぐるみの中から操作すると飛び出す仕組みのね。でも幸い作りが稚拙だった為ナイフが飛び出る事はなかった。 　それにヘンリー卿は見ただけで笑い死にするような事はなかったにしても、少なくとも体当たりを受けたとき抵抗する気力はなくしていたろうからね」 「そうして、ヘンリー卿を亡き者にしてから、あとから別の場所から何食わぬ顔で遺産を請求するわけか･･･」 　私はどういうわけだか、あの姿で遺産の請求をするステープルトンを想像してしまい、こみ上げて来る笑いを抑えきれなくなった。するとホームズはクスリと小さく笑い、悪戯ぽい視線を私のほうにむけた。 「ねえ、ワトスン君、われわれは数週間も激しく働いたのだから、ここいらで一晩、精神的休養を取ろうじゃないか。僕は「魔笛」の切符を持っている。君はド・レシュケをきいたことがあるかい？じゃ三十分のうちに支度をしないか。でがけにマルチーニによって軽く夕食をとってゆこうよ」 (「魔笛」･･･モーツァルト作曲の歌劇。パパゲーノという鳥の羽の服をきた男が出てくる･･･) ☆ことのおわり☆ 「いかがでしたか」とアッテンボロー氏はワトスン先生に語り掛けました。が、先生は博士論文執筆の疲れか、すでに夢の世界に旅立った後でした。 　猫のジェームズは、コトンとワトスン先生の膝から降りるとアッテンボロー氏をチラッと眺めフフーンとした顔をして、クーと伸びをするとドアの隙間から出ていきました。アッテンボロー氏はジェームズに蹴りを入れるしぐさをしながら、家賃の事よりも今借りている部屋の壁に額で隠してありますが“V・R”と刻んでしまった事をワトスン先生に告白すべきか否かを悩んでいました。 END