第6章「首途」　 　伯父の話は興味深く私はもっと起きていたかったが、その夜は父は私を早く寝室へ追いやってしまった。居間からは伯父･父母の声が聞こえてきたがいつの間にか私は眠ってしまった。 　しばらくすると何かしら、ぬれたものが私の顔に触れ、温かい腕が私の身体に回されたので目を覚ました。母であった。「私たちを忘れないでね、ロドニー」と母は涙を流しながら言った。 ｢どうして、母さん、それなんのこと？｣ 「お前の伯父さんが、お前を明日ここから連れて行こうとしていらっしゃるんですよ」 　悲しみに沈んでいる母とは反対に私はロンドンへ行ける喜びで心がいっぱいになった。しかし母があまり泣くので私もついもらい泣きをしてしまった。すると母はそんな私を見て今度はにこやかに笑っていた。そしてロンドンでの生活についてあれこれ注意と指図を―――賭け事には手を出さないこと、お酒はあまり飲まないこと、伯父の指図には素直に従うこと―――言った。 　　　　　　　挿絵6 　　 　　　　　　　　挿絵7 　翌朝伯父は完璧に衣装を身につけ私たちの前に現われた。そして私に真の紳士は単に裕福だけではなれるものではなく、素質を持っていなければならないといった。そして私のロンドンの生活費の一切･･･そう衣装代も･･･心配する事はないといってくれた。両親は感謝の言葉を述べようとしたが、伯父はそれは無用と遮り、フライアズ･オークでもう一つの用事があるとつげた。親友のエイボン卿と後見をしていたボクサー・チャンピオン･ハリスンに会うためにである。 　伯父は久しぶりに会ったハリスンが元気そうなのをみて大層喜び「１週間も練習をすれば昔とおりのボクサーになれるよ」と言った。 　するとハリスンは「家内はあなた様のおっしゃる運動の理解者ではありませんよ」と答えた。心配性の妻を愛するハリスンは、復帰する気があるならば惜しみなく後援するという伯父の言葉をありがたく受け取ったが、ボクシングの世界へ戻る気はないと伯父につげるのであった。伯父がハリスンを訪ねたの理由は、今度ロシアン卿が後見するウィルスンと試合があるのでその出場の依頼と、もう一つはこの次の土曜日にボクシング愛好家の晩餐があるので是非顔を出して欲しいというものであった。 　ハリスンが試合に出られないと聞いて残念そうにしている伯父の前に、工場からジムが出てきた。 「おお、これは誰だね」と私の伯父は鑑定家のような一別を投げて、ジムの素晴らしい身体を見回して「来週の土曜日の拳闘愛好家の晩餐会に来ないかい」と言った。 　ハリスンは自分の甥と紹介した。伯父の申し出にジムの黒い瞳は喜びに満ちたが､それもハリスンの言葉によって遮られてしまった―――ロンドンはこんな危険な若者には危険な場所ですよ。それに私の留守中にやらせる仕事は沢山あるからと―――可哀想なジムは踵を返して工場へ戻っていった。 　私はこっそりそのあとをついていきジムを慰めた後､私のロンドン行きを彼に告げた。生来善良なジムは私の幸運を心から喜んでくれた。そのとき伯父が外から私をよんだ。表には伯父の馬車が待っていた。私は父と堅い握手を母の涙に満ちた最後の抱擁を受け馬車に乗り込んだ。「さあ出かけよう」伯父の掛け声とともに馬車は駆け出した。 　　　　　　　　挿絵8 　　 　駆け抜ける馬車の後ろには顔をそむけハンカチを振る母､杖に寄りかかり手をかざして見送る父、そしてハリスンをはじめとする村の人たちが、私の門出を見送ってくれた。が、途中ですれ違ったヒントン嬢は顔を伏せていたので私には気づかなかったが･･･。 　馬車が角を曲がると懐かしい小さな村は見えなくなってしまい、やがて広々とした海やブライトンの灰色の家、そして皇太子の宮殿の東洋風の丸屋根や大尖塔が見えてきた。それは私にとって新しい自由な世界へ第一歩であった。いつかは後悔の念を持って茨の茂みの中､いごごちのいい巣を思い返す日がくるかもしれない。しかし私の心は初めて巣を飛び立ち､頭上に青空を眼下に緑の野を眺めながら滑るように飛ぶ若鳥の様に杞憂とは無関係であった･･･。