第8章　ブライトン街道　 　翌朝レイド夫妻との馬車競争ため私たちは早く起きたが、アンブローズの行方は依然分からなかった。伯父は不慣れな臨時の召使に助けられて、なんとか身づくろいを済ませた。 　朝食を終え広場をみるとすでにレイド夫妻の赤い四頭立ての馬車が、群集に取り囲まれているのがみえた。夫人も御者台に座っている。 「おいで、お前がまだやった事のないような馬車旅行をみせてあげるよ」伯父は私にそういって出発の準備をはじめた。私たちの日光に映え輝く二匹の栗毛の馬を縦につないだ馬車が、四頭立ての馬車の側まで行くと群衆の中から賞賛の声が沸き上がった。(挿絵6） 「15分の先発時間で君達がウエストミンター橋へ来るまで、僕たちの姿を見つけることが出来なかったら100ポンドだよ」とジョン･レイド卿がいった。 ｢僕のほうが追い越したら、もう100ポンドとるよ｣と伯父が答えた。 　　　　　挿絵6　 　 　　　　　挿絵7 　レースははじまった。ジョン･レイド卿は先に馬に鞭をふるい出発した。そして私たちはその15分後、教会の時計が9時を知らせる鐘の音と同時に馬車を走らせた。 　伯父は雌馬を操りながらクレイトン・ヒルまでの厄介な道を楽々と走らせていった。フライアズ・オークを通り抜け、私の父母のいる懐かしい黄色の家もあっという間に通り過ぎていった。私はこんな愉快な気分を味わった事はなかった。 「ここからハンド・クロスまでは、険しい坂道が4マイルも続くんだ。少し馬を楽にさせてやろう。ローディ立ち上がって、レイドたちの姿が見えるか眺めてくれないかい？」私は伯父の肩につかまって遥か前方を眺めたが何も見えなかった。(挿絵7） 　馬車は軽快に走り―――といっても駅馬車を追い抜かすほどの速度なのだ！―――その間に伯父は馬車における馬の扱い方について私の教えてくれた。その言葉は技巧を凝らした成句が混じり私は返事をするのだけも精一杯だったけれども。 　やがて前方に土ぼこりがみえた。「ほかにこんなにあんなに速く駆けていく者はほかにいない！」伯父は叫んだ。伯父の栗毛の馬たちは前方にみえるレイド夫妻の馬車めがけて疾走した。あまりの速さに馬車のゆれが酷く私はわき木にしがみついてしまった。ところが片方の馬が足を引きずりはじめた。私たちはすぐに馬車を降り馬の脚を見たが右前足に石がはさまっていたので一二分後には抜き取る事が出来たが、その間にジョン・レイド卿夫妻の馬車の姿は視界から消えていた。(挿絵8) 　しかし私たちはすぐに彼らに追いつくことができた。 　　　　　　　挿絵8 　　　　　　 　　　　挿絵9 　私たちと夫妻の馬車は土埃の中を平行に走っていた。馬の尻の先は一線をなし前車輪はピューンと唸りを発した。道幅はもう六インチとは余裕がなかった。そして土埃から抜け出てみると目の前に道幅が狭くなった橋があるのが判った。2台の馬車が並んで走る余裕はなかった。「僕が先だ！馬をひきたまえレイド！」と伯父が叫んだ。「いや、僕だ！」と相手が叫んだ。「煽るのよ、ジャック！どんどん煽るのよ！」と夫人が叫んだ。私たちの馬車はレイド夫妻の馬車を追い抜いぬき先に橋へ入った。 ふと私が振り返るとレイド夫人が身体を前に乗り出し手綱を握って先頭の馬を私たちの馬車に体当たりさせ、橋から落とそうと試みているではないか！(挿絵9） 　しかし一瞬遅かったため私たちは無事橋を渡り終わる事が出来た。レイド夫妻の馬車といえば体当たりに失敗したため、馬に怪我を負わせてしまったので止まらせざるをえなかった。 「さあ、もう大丈夫だよ」伯父は後ろを振り返りながらいった。そして自分の馬車に馬を体当たりさせたジョン・レイド卿の乱暴を非難した。私は彼の妻の仕業であると伯父に伝えた。伯父は愁眉を開いて笑い出した「そうとは気づかなかった。とにかく先を急ごう。そして無事にテムズ川を渡れたことを、馬どもに感謝しよう」 　馬車を進めていくと家々の軒が連なりはじめ、角にはけばけばしい商店があり、私は今まで見たこともないような人馬の流れが街の中心に向って轟々とすすんでいくのが見受けられた。ついにロンドンに到着したのである。 「あれが議事堂だよ、ローディ」伯父は鞭で指し示しながら説明してくれた―――前をノーフォーク公が通り過ぎて入った、ホワイトホール、大蔵省、門の前に入るかの彫り物があるのが海軍省、目つきの鋭い男が四輪馬車からみえるだろ？あれはピットが議会にいく所だよ―――　ロンドンにはただ無数に家がいっぱいあるだけだと考えていた私は驚きを隠せなかった。 　馬車はやがてセント・ジェームズ街を通り抜け、それに接するジャーミン街に入った。伯父は一軒の小さな家の前に馬車を止めた。「さあ、とうとう私の小さな住居に着いた。ブライトン・オールドの広場を出てから丁度5時間だ」