第11章　馬車置き場の試合 　簡単な発表があると、一瞬、沈黙の驚きがおこり、やがて一同がドッと笑った。 　ここに集まったのは一流のボクサー達。その彼らに挑戦するなど、いたずらとしか思われなかったからである。しかしこの謎の挑戦者に興味を抱いたボクサー達は誰も彼もが相手をしたいと希望した。その中には皇太子も入っていた。だが最終的にきまったのは一番の荒くれ者のジョー・バークスであった。対戦相手が決まった所でその謎の挑戦者が戸口の所へやってきた。 　私はそちらを見ると長い褐色の旅行服を着、黒のフェルト帽をかぶった身づくろいのよい若者の横向きの姿が目に入った。なんとそれはジムだったのだ！(挿絵3） 　　　　　　挿絵3 　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　挿絵4　　　　　　　 　　 　甥の突然の出現にハリスンは困惑していた。何とかジムに試合をすることを押しとどめようとしたが、その決心が変わらない事を知るとあきらめたようだった。 「僕は誰とたたかう事になっているんですか」とジムは一同をみまわした。 すると群衆の中からよろめきながらバークスが名乗りを上げた。(挿絵4） 　ジムは不快の色をあらわして「酔っ払いとやらせるつもりですか」と言った。 　試合会場は馬車置き場ときまりロープが張られ、あっという間に即席のリングが作られた。 　やがてジムは腰のところまで裸になり、胴の周りに色ハンカチを結んで現れた。 　その美しい姿を見て観衆は賞賛の声をあげた。(挿絵5) 　つぎにバークスが現れた。しかしその身体は素人の私から見ても酒びたりの生活が色濃く出た不健康なものであった。 　　　　　　　挿絵5 　　　 　　　　　　　　挿絵6 　試合は開始した。バークスは頭を低くして手を交互に繰り出し突進するやジムを隅に追いつめた。(挿絵6) 　ジムの口の端から2、3滴の血が見えた。「１対４でバークスの勝ち」と言う声があがった。 　即座にセコンドは二人を引き離し第一ラウンドは終了した。 　その後の試合は一進一退を極めたが、ジムのその勇姿にすっかり興奮した名だたるボクサー達はジムに次々助言をしてくれた。 　 　リングサイドからの「左手でみぞおちを、右手で頭を狙え」と言う指示をジムは即座に実行した。彼の左ストレートはバークスの鳩尾を見事にきまり、バークスはそのまま巨大な肉の塊となってリングに倒れた。(挿絵7) 　彼の口にブランデーが注ぎ込まれ何とか意識を取り戻させようとしたが「タイム！」の声がレフリーから発せられた。 　ジムはバークスをノックアウトしたのである。群集は勝利者たるジムの手をとろうと殺到した。私も駆けつけたかったが到底たどり着けるものではなかった。 　周りではジムのプレイとその前途について盛んに議論が交わされていた。やがて試合の興奮が冷めると皇太子の退出を合図に晩餐会はお開きとなった。 　これで私はやっとジムの元へと駆けつけることが出来た。ハリスンといえば、まだ歓喜の涙を浮かべジムの着替えを手伝っていた。 　私とジムは再会の握手を交わした。私とハリスンはジムにロンドンへ向かうための、その美しい衣装を誰が用意したかを訊ねた。するとジムはヒルトン嬢が援助してくれた事を話してくれた。 　　　　　　　　挿絵7 　　　 　　　　　挿絵8 　 　そうこうしているうちに馬車置き場は片付けられてしまい、バークスは悪態をついてその場から外へ出て行った。 　私の伯父とベルチャーはひどく熱心にしゃべりながら残っていた。 　やがて伯父はジムに「君は、グロセスターのクラブ・ウィルソンとの試合に私の方の選手になる事を引き受ける気があるかね？」といった。(挿絵8) 　ジムは一つ返事でこれを承諾した。しかもジムの憧れのボクサーであるベルチャーがその指導をかってくれる事になったのである。私はジムに練習場のあるクローリーを訪ねる事を約束した。 　その帰りの馬車の中で私は伯父から忠告をうけた。ジムと私は友情を結ぶには身分が違いすぎると…。 　私はそれに対して「私にとって、彼は世界中で一番古い親愛な友人です。私達は子供の頃から一緒でした。そして今までお互いの間に一つの秘密もありませんでした。僕が彼より優越している事を彼に示すことは、僕には出来ません」と反論した。 　伯父は｢フン…｣と不機嫌に言ったが、それがこの晩彼の私に述べた最後の言葉だった。