第18章　鍛冶屋の最後の戦い 　二人はおもいおもいのポーズを取って対面した。(挿絵1) 　ウィルソンはあだ名―――クラブ(蟹)―――に由来する形、左手左足を前面にだし上半身をそらせた。 　ハリスンは膝を少し曲げ相手の正面に立った。しかしそれは10年ほど昔の時代遅れの形であった。 　最初ウィルソンは用心をしてハリスンに正面から向かって来なかった。ハリスンは｢お前さんのほうからかかって来るがいい、若いの。俺は歳を食っているから、あんたについていくことができねえんだ｣と挑発した。 　その言葉にウィルソンはすぐに応えた。油断していたハリスンに顔に3発、あばら骨の下に2発パンチを食らわしたのだ。ハリスンの口から血を滴り落ちた。ウィルソンはさらに攻撃をしてきたが、草ですべってしまったので、第一ラウンドは終了した。 　　　　　　　　挿絵1 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　挿絵2　　　　　　　　　　 　　　　　 　用意された水盤に折れた歯を吐き出すハリスンを見て「昔のままだ」とベルチャーは言った。 　ハリスンの無防備ぶりに見かねたセコンドは「気をつけろジャック、あちらさんよりもお前さんのほうがやられているぜ」といった。(挿絵2) 　周りの人々からの話し振りからこの勝負はハリスンの方が不利ということを私は知った。 　第二ランドがはじまってすぐに、ハリスンはノックダウンされてしまった。ハリスンの闘志は失われていなかったが、なぜかハリスンは殆ど反撃をせずウィルソンの攻撃を受けていた。それをみてウィルソンの勝利を確証したロシアン･ヒューム卿は微笑みながら何度も相槌を打っていた。(挿絵3) 　 　　　　　　　挿絵3 　　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　　　挿絵4 　　　　　　 　しかし第7ラウンドに入り、天候がかわり雨が降り始めた。それと時を同じくしてハリスンは攻撃に転じた。(挿絵4)　そしてたちまちウィルソンを彼のコーナーへ追い詰めてしまった。 　状況は一転し、ロシアン・ヒューム卿の顔からは微笑が消えていた。そのとき私が気づいたのはヒューム卿が度々後ろを振り向き、観客席の誰かに合図をしていることであった。私はその視線の先に非常に背の高い男を見つけた。その男はハリスンに度々うるさい野次を飛ばしていた。 　試合開始から1時間25分が過ぎていた、雨足は増し、ウィルソンは負け続けていた。ハリスンのほうが負傷箇所は多かったが、ウィルソンは呼吸器を完全にやられているらしく意識が朦朧としていた。観客席からは｢中止させろ！中止させろ！｣という声が聞こえた。ウィルソンの衰弱ぶりを見かねたフリッツ・パトリック将軍がロシアン卿に敗北宣言を勧めた。ロシアン卿はその言葉を受け入れたかに見えたそのとき、卿の左手が不自然なそぶりで空へ掲げられるのを私は見た。 　次の瞬間「ロープを切れ!公平にやれ！雨がやむまで待つんだ！」という先ほどの男の怒号が聞こえたと同時に、それが合図となって「グロスターに対して勝負を公平にしろ、試合場をぶっ潰せ！」と群集がリングに向かって押し寄せてきたのだ。(挿絵5) 試合場はたちまち乱闘の場と化してしまった。 ｢試合場は破壊されてしまった。審判官この試合は無効だ｣とロシアン卿が叫んだ。 ｢卑怯者！これは君の仕業だ！｣と真っ赤になって伯父は怒った。 　混乱は益々ひどくなり暴徒の1人が時計係の時計を盗んで行ったため試合は事実上出来なくなってしまった。伯父は悔しげにこの言葉に従った。 ｢引き分けだ。引き分けだ。｣誰ともなしに叫んだ。その言葉に乱闘は終結し人々はロンドンへ帰るために散り散りに去っていった。 　　　　　　 　　　　挿絵5 　　　　　　　　挿絵6 　　　　 　ハリスンはウィルソンの元へ行くと怪我の塩梅をたずねた。(挿絵6） 　握手をして「どうだい、あまり怪我をしてなければいいが」と言った。そして二人はお互いを気遣ったあと。そのまま気持ちよくわかれた。 　今回の試合はまずい結果に終わったが、それはこの二人のせいではなく見物側のごろつきのせいであったのだ。選手には何の罪もない。それはちょうど競馬に例えるなら掛け金を払わなかったり、乱暴を働いたりする輩が気高き競走馬に劣るのと同じようなものなのだ。