シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 １．ホームズ物語に出てくる主な繊維製品 １）毛織物：動物の毛（主として羊毛）を紡いだ糸で織った織物 （8）その他 登場する事件名 《緋色の習作》《海軍条約文書事件》 　 　そのほか変わったものとして、動物の毛を織り込んだ「馬巣（ばす）織り」があります。これは経（たて）糸に綿糸または麻糸を、緯（よこ）糸に馬の尻尾の毛を用いたもので、多くは洋服の襟芯などに用いられるものであります。《緋色の習作》（p55）にこの「馬巣織り」が衣装としてではなく、ソファの生地として登場します。ホームズはワトスンとともに、ローリストン・ガーデンズで死体を最初に発見したランス巡査に直接話を聞くために、ロンドン南部のうす汚れたわびしい地区にあるオードリー・コートのランスの自宅を訪ね、玄関脇の小さな客間に通されますが、そこで「ランスは馬巣織りのソファに腰をおろし」死体発見前後の状況の詳細をホームズに話し始めたのであります。なお余談ではありますが、チャールズ・ディケンズの「二都物語」に出てくるフランス人ミス・マネットがドーヴァーのロイヤル・ジョージ・ホテルに取った部屋には、馬巣織りのカーテンがかかっていて、敷いてあったトルコ絨毯はひどくすり切れていました。これらの例からもわかるように「馬巣織り」はあまり高級なイメージとは結びつかないようです。 　もうひとつ例を挙げておきます。《海軍条約文書事件》（p363）において重要文書を盗まれた書記官のパーシ・フェルプスは、彼が仕事中に書記官室に入ってきた雑役婦が犯人ではないかとの疑念を抱きましたが、それにしては、その夜はずっと雨が降っていたにもかかわらず、泥靴の足跡を残していませんでした。しかしそれは、雑役婦が守衛室で靴を脱いで「織物の端ぎれで作ったスリッパ（list slippers）」に履き替えることになっていたためだということがわかります。この「list slippers」の「list」（織物の端ぎれ）は、辞書では毛織物・綿織物などの区別が示されていないのですが、河出書房新社版ホームズ全集の原典であるオックスフォード版ホームズ全集のクリストファー・ローデンによる注釈では「安手の毛織物であるリスト（端ぎれ）」となっていますので、その根拠ははっきりしませんが、ここでは一応毛織物の範疇に入るものとして整理しました。