シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第２章ワトスンのすべて 　5. ワトスンの「空間／数的」能力 　以上に見たように、「シャーロック・ホームズ　事件と心理の謎」によれば、ワトスンは一般知能を構成する因子群のうち「言語性」と呼ばれる文学的能力には優れているが、もう一方の「空間／数的」能力についてはいささか弱く、少なくとも文学的能力ほど優れてはいなかったとされています。その論拠として、たとえば《空き家の冒険》においてホームズとワトスンがキャヴェンディッシュ・スクエアで馬車を降り、ホームズが「網の目状の路地や厩(ミューズ)の間を素早く確信に満ちた足どりで通り過ぎ」「狭く陰気な家並みが並ぶ小さな通りに出たが（略）素早く狭い小道へと曲がり」ようやくベイカー街のホームズの部屋の向かい側にあるカムデン・ハウスにたどり着くのですが、ホームズについて行くだけだったワトスンには、長年住んでいたベイカー街の近辺であるにもかかわらず、そこに着くまでどこをどう歩いているのかわかっていなかったことや、ワトスンの位置関係の描写が不正確であるため、ホームズの部屋があったベイカー街221Ｂの番地が現在のどこにあたるのか、部屋の配置はどうなっていたのかというような問題がいまだにシャーロッキアンを悩ませていることなどが挙げられています。　 この場所はシャーロック ミューズと名付けられているところで厩(ミューズ)にはこのような袋小路が多いそうです。 　　撮影　関矢悦子　 　　撮影日2004年1月6日 　この空間能力、つまり自分が空間的にどの位置にいて、どちらの方向をむいているのかを認識できる能力に関し、同書にはおもしろい記述があります。それは、現在では男性ホルモンのうちの主たる成分であるテストステロンの血中濃度がこの空間能力に関連があることがわかっていて、男性の場合このホルモンが適度にあれば、空間知覚能力は高まるが、多すぎたり少なすぎたりすると弱くなるということです。たとえばボールを正確に投げたり捕ったりするラグビーにはこの空間能力は欠かせません。ホームズは《サセックスの吸血鬼》という事件において、依頼人から来た手紙でワトスンが若いころブラックヒース・クラブの選手だったことを初めて知り「君には計り知れないものがあるね、ワトスン。君には、まだまだ知られざる可能性が潜んでいるようだ」と言っています。 　ブラックヒースといえば、1858年創立の名門で英国の一流チームとも試合ができる高いレベルを持ったラグビー・クラブでありますから、若いころのワトスンは優れたラグビー選手だったことは明らかであり、それはつまり、テストステロンの血中濃度が適度であり、空間能力に優れていたに違いありません。しかし、ホームズとともに行動するようになったころには彼の空間能力は、上述したように、いささか心もとなくなっています。あとで述べますが、このころのワトスンは女性に対して惚れっぽく、たしかに女性に少なからぬ興味を示していて、《第二の汚点》ではホームズに「さて、ワトスン、女性は君の担当分野だ」などと、真面目ともからかいともつかぬ言いかたをされています。したがって同書は、そのころのワトスンには、多すぎとまでは言えぬにしても必要以上のテストステロンが分泌されていたと考えるのが妥当だろうという結論を真面目くさって述べているのであります。 　同書はまた、ワトスンの数的能力の無さも、少なくとも金銭面に関しては、空間能力とほとんど変わらなかったようであるとして、年に２００ポンド以上〔《緋色の習作》に出てくる、ワトスンの年金支給額、１日当たり11シリング６ペンスを年額換算したもの 〕になる年金がもらえるのに、ほんとうに金に困っていたのなら、やりくりが実に下手だったとしか言いようが無いと述べています。そしてワトスンの金銭感覚が大雑把だった証拠として《踊る人形》でワトスンの小切手帳がホームズに管理されていたことや、《花嫁失踪事件》でホームズが手がかりの一つである領収書にあった食事代が「きわめて高級なホテル」の値段だったとわざわざワトスンに説明しなければならなかったことが取り上げられています。しかし、よほどの世間知らずでないかぎり、ワトスンのような年代の、しかも社会的地位のある男なら、通常の食事代のレベルくらいは知っていて当然でありますから、この点については、彼が巾広い常識を持った現実主義者であるとする多くのシャーロッキアンの意見とは相容れないところであります。