6、ワトスンと女性

シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野雅士

第２章ワトスンのすべて

　6. ワトスンと女性

　ワトスンが女性に惚れっぽいということは、シャーロッキアンの間では常識になっています。「シャーロック・ホームズ大事典」の『ワトスン（の性格）』の項（執筆　東山あかね）には「かなりの遊び人で《四つのサイン》では『三大大陸の女性を見てきた』とワトスンが自慢している。その三つとはオーストラリア、ヨーロッパ、アジア（アフガニスタン、インド）であろう。単純に『見た』だけではあるまい」という意味深な表現がなされています。その《四つのサイン》でワトスンは、ホームズを訪ねてきた依頼人のメアリ・モースタン嬢に一目惚れしてしまい、彼は心配事を抱えている彼女の気を紛らせようと、アフガニスタンの思い出話をしたのですが、しどろもどろで「真夜中に銃がテントを覗き込んだので、それに向かって虎を発射した」とチンプンカンプンなことを言ったりするくらい舞い上がってしまったのであります。三大大陸で女性経験を積んだというワトスンでさえも、このような体(てい）たらくとなったのですから、モースタン嬢の魅力は相当なものだったに違いありません。げに恐ろしきは女の魔性であります。それにしても四日後に事件が解決したときには、ワトスンはすでにモースタン嬢と結婚の約束を取りつけていたのですからさすがにすご腕といえます。その電光石火のごとき手の早さには恐れ入るほかはありません。

　ホームズもモースタン嬢に対して好感を持っていたことは「彼女は今まで会った若い女性の中でいちばん魅力的な女性の一人だ」と言った言葉からも察せられますが、ワトスンとモースタン嬢がこのような関係になったのは、事件の途中でワトスンが彼女に好意を抱いていることに気づいたホームズが気を利かせて、事件現場のポンディチェリ荘から彼女を家まで送り届けるようワトスンにエスコートを頼んだ結果だとする説もあります。しかし、それにしては事件が落着したときにワトスンが「モースタン嬢がぼくを未来の夫として受け入れることを承諾してくれたのだ」と報告したのに対してホームズが返した言葉はいささかきつすぎるように思われます。ホームズは憂うつそうにうめいて、こう言ったのです。


	結婚時の年齢　　1907年5月号ストランド・マガジン掲載

「そうなるのではないかと思っていたよ。おめでとうとは言わないよ。（略）恋愛は感情的なものだ。感情的なものは、それが何であるにせよ、ぼくが何より大事に思っている、真の、冷静な理性とは相反するものだよ。ぼくはね、ぼくの判断力が狂うといけないから、絶対に結婚はしないよ」と。

　おそらくこれは嫉妬の感情を抑圧したホームズの強がりだったのではないかと思われます。ただし、当時の英国の社会では独身の著名人は多く、生涯を独身で通すことがそれほど奇異なことではなかったという時代背景は理解しておく必要があります。いずれにせよ、ホームズは、女性に関してはワトスンに勝てないことを認めていたようで、前述したとおり《第二の汚点》でホームズが「ワトスン、女性は君の担当分野だ」と言ったのも半ば本音だったと思われるのであります。さらにホームズは《隠居絵具屋》で「君の生まれつきの魅力をもってすれば、どの女性でも助けてくれたり、協力してくれると思うがね」などと、ワトスンに対する羨望とも皮肉ともつかない言い方をしています。

　さて、ワトスンがモースタン嬢と結婚してベイカー街の下宿を去り、開業医としてパディントンに住むことになったのは、1888年（一説では1887年）に起こった《四つのサイン》事件のあとでありますが、彼女との幸せな生活は長くは続かなかったのであります。というのは、ホームズは1891年に宿敵モリアーティ教授とともにライヘンバッハの滝から落ちて消息を絶ちましたが、３年後の1894年に突然生還したときには、ワトスンはすでに妻を失っていたからであります。


	1907年5月号ストランド・マガジン掲載

　ワトスンが黙して語らないので、その悲劇がホームズの不在中の何年に起こったのか、また死別か生き別れかについても不明でありますが、ただ《空き家の冒険》では、生還したホームズがワトスンの不幸をすでに知っていて「ワトスン、悲しみには仕事が一番の薬だよ」と言って、ワトスンを元気づけています。
　ホームズは生還後間もなくワトスンをベイカー街へ呼び戻し、再び二人の同居生活が始まりますが、1903年に起きた《白面の兵士》の事件では、ワトスンは、相手の女性が誰かは不明ですが、再び結婚してホームズと別居しているのであります。したがって、この《白面の兵士》はホームズがみずからペンを執ったものであり、彼はそのなかで「その頃はあの良き友ワトスンはといえば、結婚していて私とは疎遠になっていた。これは思い出せる限りの私たちの長い付き合いの中でたった一度の彼の勝手な行動だった。私はひとり寂しく過ごしていた」と、恨みがましく書き記しています。シャーロッキアンの間では、ワトスンの二番目の夫人が誰かということでまたひと議論あるわけですが、それはさておき、以上の経緯からみると、ワトスンの結婚歴は少なくとも二回あるということになります。ワトスンの結婚回数については、このほかにも、H ・W ・ベルやW ・ベアリング-グールドの三回説や、ホームズが生還したときもメアリ・モースタンは死んではいなかったとするＪ・ホールの一回説など、シャーロッキアンの間でも意見が分かれているのであります。

参考資料　ワトスンの結婚回数について　　作成　関矢悦子
Ｈ・Ｗ・ベル (1932年発表）	Ｗ・ベアリング-グールド (1963年発表)	Ｈ・Ｔ・フォルソム (1991年発表）	J・ホール (1993年発表)	J・トムソン (1995年発表）
ワトスン結婚3回説	ワトスン結婚3回説	ワトスン結婚2回説	ワトスン結婚1回説	ワトスン結婚2回説
1回目メアリー・モースタン 2回目1895～1896 3回目1902～	1回目1886～1887 (相手はコンスタンス・アダムズ) 2回目メアリー・モースタン 3回目1902～	1回目メアリー・モースタン 2回目1902～	妻はメアリー・モースタン	1回目メアリー・モースタン 2回目1902～