5)アデルバート・グルーナー男爵

シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野雅士

第4章悪党の系譜　１. 組織的犯罪　
　

　5)　アデルバート・グルーナー男爵

　組織的犯罪とはいっても、前述のモリアーティ教授一味や「スコウラーズ」のように、あるいは項目としては取り上げなかったが《オレンジの種五つ》に登場する秘密結社Ｋ・Ｋ・Ｋ（クー・クラックス・クラン）のように組織構成員が厳しい鉄の掟に縛られた組織ではなく、犯人が実行犯を個人的に金で雇って犯行を委託するという、契約関係に基づくもう少しルーズな犯罪集団があります。たとえば《高名な依頼人》のアデルバート・グルーナー男爵の例を見てみましょう。この事件は法的な犯罪を構成するとはいえず、かつ犯行未遂となりました。高名な依頼人の代理としてホームズを訪ねてきたサー・ジェイムズ・デマリー大佐によれば、グルーナー男爵は「暴力は当たり前、文字どおり何事にも躊躇しない男」で「ヨーロッパにこれ以上危険な人間はいない」のであります。そして「あの男は並みはずれてハンサム」で「非常に魅力的な物腰、やさしい声、女性にとって大きな意味を持つロマンスと神秘の雰囲気を兼ね備えて」いて「全女性は彼の意のままになるので、彼はその事実を大いに利用しているという評判」だったのです。
　ホームズに対する依頼というのは、カイバル峠の戦いで有名になったド・メルヴィル将軍の令嬢をこの男の毒牙から守ってほしいというものでありました。しかし、デマリー大佐が言うには「悪党は令嬢にひたすらつきまとい、ついに彼女の心を完全に獲得した。（略）ずるがしこいあいつめは、自分の過去のすでに知られている、芳しくないスキャンダルについても、すべて彼女に話してあるのだ。だが、いつも自分は罪のない殉教者だと思い込ませる言い方でだがね。彼女は完全に彼の言い分を信じて、それ以外のものには耳を貸そうとしない」事態になっているとのことでありました。
　グルーナー男爵に関するそれ以外の情報を求めたホームズに対し、デマリー大佐が提供したのは、彼が「金のかかる趣味」をもっていて「馬に夢中」であること、「短い期間だったが、（略）ポロをしていた」こと、「書籍や絵画を収集している」こと、「性格的になかなか芸術家の面」もあり「中国陶器の大家であることは認められていて、それについて本を書いたことがある」というようなことなどでありました。
　これを聞いてホームズは「複雑な精神構造ですな。大犯罪者というのはみんなそうです。僕の古い友人のチャーリー・ピース〔大胆な手口と天才的な変装で有名な実在の殺人犯〕はヴァイオリンの名手だったし、ウェインライト〔有名な実在の毒殺者〕はたいした芸術家だった」と語っています。ホームズはグルーナー男爵と直接対決を試みましたが、そのときの男爵に対する印象は「とても愛想がよかった」が「氷のように冷たく、絹の手触りのような声、（略）顧問医師さながらに、うまく心を鎮めてくれる態度なのだが、コブラのように毒をもっている。彼には生まれながらにして素地のある、本物の犯罪貴族だ。表面は午後のお茶でもどうぞという感じなのだが、裏には墓場のような残酷さを秘め（略）昆虫の短い触覚のような、先端をワックスで固めた短いひげを鼻の下にたくわえていて、（略）おかしいと思うと、このひげが細かく揺れていた」といったようなことでありました。

　やがてワトスンは、ホームズに頼まれ、一夜漬けの勉強で中国陶器の収集家に化けてグルーナー男爵の屋敷に乗り込むことになりました。そのときのワトスンの男爵に対する印象は次のようなものでした。「たしかに、極め付きのハンサムな男だった。ヨーロッパで、美しいと評判になったのもまったくうなずけた。体形は中くらい以下だが、身のこなしが優雅で、溌剌としていた。顔は色黒で、ほとんど東洋風だった。大きくて、黒い、物憂いような瞳は、女性を簡単に魅了して、抵抗できなくしてしまっただろう。髪とひげはカラスのぬれ羽色のように黒く、ひげは短く、先は細く、念入りにろうで固めていた。顔つきは整っていて、感じがよかったが、それは真一文字に結ばれた、唇の薄い口を除いてだった。もし、人殺しの口を見たことがあるとすれば、それがこの口だ──顔の中の、残酷で、厳しい、深い裂け目。堅く結ばれ、冷酷で恐ろしい口。口を隠さずに、唇に沿ってひげをたくわえておいたのは、軽率だった。それは、彼の犠牲者たちへの警告として置かれた、神の発する危険信号になっていたのだった。声は魅力があり、礼儀作法は完璧だった。年齢は三十を少し出たくらいと思っていたが、後に、彼の経歴を見ると四十二歳であった」


	ワトスン(左）と陶器を調べているグルーナー男爵 (ハワード・Ｋ・エルコック画）《高名な依頼人　部分図》より

　ド・メルヴィル嬢から手を引くようにというホームズの説得は、ホームズ自身が予想していたように、うまくいかなかった。グルーナー男爵はくすくす笑いながら言ったのです。「笑ったりして失礼しました、ホームズさん。しかし、あなたがカードをまったく持たずに、勝負しようとしているのを見ていると、まったくおかしいのですよ。（略）絵札は一枚もありませんね、ホームズさん。あるのは小さい数字のカード、それもいちばん小さいものだけのようだ。（略）事態をはっきりさせておきましょう。わたしの持ち札は強いですから、広げてお見せできますよ。わたしは幸運にも令嬢の全幅の愛情を得ることができました。私の過去のいまわしいできごとをすべて、はっきりと彼女に話したにもかかわらず、彼女はわたしを愛してくれたのです。それから、ある悪意ある、下心をもつ人物──あなたご自身の姿を見るかのように思いますが──が来て、あれこれ話をするかも知れないと彼女には言っておきました。そして、その人物をどう扱ったらいいかも教えておいたのです。催眠術の術後暗示のことを聞いたことがありますか、ホームズさん？　そう、ご自身でそれがどう働くものか、いずれご覧になるでしょう。（略）彼女はあなたに会う準備はできています。きっと会う約束をするはずです」　　

　これ以上話しても無駄だと思ったホームズが引き揚げようとすると、男爵が言いました。「ところで、ホームズさん。フランスの捜査員のル・ブランはご存じですかな」
「ええ」とホームズが答えます。
「では、彼の身におきたことはご存じですか」
「聞くところによりますと、モンマルトル地区で、ならず者たちに殴られて、生涯、体が不自由になったということでしたが」
「そのとおりですよ、ホームズさん。（略）彼はほんの一週間前に、わたしの事件を探っていたのです。そんなことをしないことですな、ホームズさん。すればよくないことがおこりますよ」
　こう言ってグルーナー男爵はホームズを脅したのであります。グルーナー男爵のことはあきらめるようにとのド・メルヴィル嬢に対するホームズの説得も、催眠術にかかった彼女を術後暗示から解放することはできませんでした。そうこうしているうちに、ホームズはリージェント街のカフェ・ロワイヤルの前でステッキを持った二人の男に襲われて、頭に二か所、数針縫うほどの裂傷とかなりひどい打撲傷を負い、チャリング・クロス病院へ運び込まれる事態となったのであります。これがグルーナー男爵の差し金であることは明白ですが、ホームズはもともと棒術の心得があったので、大事にいたりませんでした。


	「ホームズ襲撃事件」が載っている新聞の売り子 (ハワード・Ｋ・エルコック画）《高名な依頼人》より

　しかし、彼はこの事件を最大限に利用して怪我が重体であるように装い、それを新聞に報じさせて男爵の油断をさそい、その間に巻き返しを図って見事に目的を達することになるのであります。これについては第3章「8の2)キティ・ウィンター」の項で述べたとおりであります。　
　以上のほかにも、ホームズ物語における犯罪は、共犯者と協力してグループとして行なわれるものが多く、全部で六〇件ある事件記録のうちほぼ半数を占めています。それらは秘密結社のように結束の固いものから、金銭的な契約で犯罪の実行を請け負うもの、あるいは血縁関係の結びつきによるものまでさまざまであり、また首領格とその手下というように上下関係のはっきりしたものもあれば、共通の利益を求めて対等な仲間が集まった犯罪集団のようなものもあります。いずれにせよ、これらについては、悪党の名を出してしまうとネタばれになるおそれがあるので、ここでは詳細な言及をさし控えておきましょう。　