シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第4章 悪党の系譜　2. 個人的犯罪　 　 　2)　チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン 　すでに第３章「２.　メイド」の「アガサ」の項で触れたように《犯人は二人》に登場するチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンは、ホームズが最もてこずった相手の一人であるといっていい悪党であります。ホームズはある高名な依頼人から、ドーヴァーコート伯爵との結婚を間近に控えたレイディ・エヴァ・ブラックウェルが、むかし地方の無一文の若い郷士に宛てて書いた軽率な手紙を手に入れたミルヴァートンから､その手紙をネタに強請(ゆす)られているので、彼女の窮地を救ってやってほしいとの依頼を受け、活動を開始します。ミルヴァートンの出した条件は7,000ポンド（約１億6,800万円）支払わなければ、問題の手紙を結婚相手のドーヴァーコート伯爵へ送りつけるというものでありました。伯爵の性格からして、それは婚約の破談を意味していましたが、レイデイ・エヴァ・ブラックウェルにそんな大金はありませんでした。ミルヴァートンはホームズが試みた金額の値切り交渉をまったく相手にせず、慇懃無礼な態度でせせら笑うだけで、あの冷静なホームズも、怒りとくやしさで真っ青になったのであります。ワトスンは、ベイカー街のホームズを訪ねてきたミルヴァートンについてこう描写しています。 「従者が馬車の扉を開くと、ふわふわしたアストラカンの外套を着た、背の低い、太った男が降りてきた。（略）年は五十くらいで、大きくて、知的な頭を持ち、丸々と太って、ひげのない顔には冷たい笑いが絶えなかった。鋭い、灰色の目が、大きな金縁のめがねの奥で光っている。ピックウィック氏の慈悲心のようなものがあるように見えるのだが、いつも笑っているのが誠意がなさそうで、落ち着きのない刺すように鋭い目が、抜け目なく光って、慈悲心のように見えるものを台無しにしていた。かれの声は、顔つき同様に、おだやかでていねいだった」と。 　ここでワトスンが触れたピックウィック氏というのは、チャールズ・ディケンズ（1819−1870）が1836年から37年にかけて月間分冊で発表した初めての長編小説「ピックウィック・クラブ」の主人公でありまして、この小説は文学史上、稀にみる熱狂的歓迎を受け、ディケンズは一躍国民的作家となりました。 チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン (シドニー・パジェット画) 《犯人は二人》より 　ピックウィック氏　　 　(ストランド誌1896年1月号掲載) 連載時にハブロット・ブラウン（筆名：フィズ）によって描かれた「丸い顔に丸い眼鏡をかけにこやかに微笑」したピックウィック氏は英国のアイドル的存在となり、その後この挿絵は様々な版においても使用され、本文と分かち難く作品の一部となっているそうです。 　ところでミルヴァートンについては、ホームズもまた「ワトスン、動物園でへびの前に立って、死人のような目をして、不気味な、平らな顔をした、くねくねとすべるように動く、毒を持った生き物を見ると、何か背筋がぞっとするような、いやな気分を感じることはないかね。まあ、これがミルヴァートンに対するぼくの印象さ。これまで五十人もの殺人者を相手にしてきたが、そのなかの最悪な人間でさえ、この男のような嫌悪を感じさせることはなかったよ。（略）顔で笑いながら、大理石のように冷たい心で、彼は相手からしぼりとるものがなくなるまで、しぼって、しぼりぬくのだ。彼はこういうことにかけては天才で、もっと気の利いた商売でも成功したろうね。（略）彼は金があって、ずる賢いから、生活に困ってすぐに脅迫するようなことはしない（略）奴は切り札を何年もあたためておいて、手に入れるものが最高になった時に取り出してくる。彼をロンドンで最悪の男だと言ったけれど、かっとなって仲間を棍棒でなぐるような悪党とはくらべものにならないのさ。彼は、すでにいっぱいふくらんでいる財布をさらにいっぱいにするために、整然と、自分の好きな時に人の心を痛めつけ、神経を苦しめるのだ」と語っています。　 　結局のところ解決の方法は、強請(ゆす)りのネタになっている問題の手紙を、ミルヴァートンの屋敷の金庫から盗み出すしかなかったので、ついにホームズは家宅侵入や金庫破りの不法行為もやむを得ないと決心したのであります。その準備としてホームズが、鉛管工に変装してミルヴァートンのメイドのアガサとねんごろになり、彼女と婚約までして屋敷内の様子を詳しく聞き出したことはすでに述べたとおりであります。物語のなかでホームズがいみじくも「ワトスン、君だから言うのだけれど、ぼくはとても有能な犯罪者になれるだろうと思っていたのだ。今夜はそれを確かめる生涯で最良の機会だ」と言っています。そしてホームズとワトスンはある夜、ついに夜陰に乗じてミルヴァートン邸へ侵入し、ホームズがプロ並みの手さばきで金庫を開けて問題の手紙を見つけ出し、それを奪い取ることに成功したのであります。しかしこのような強引な方法をとることは、公務員である警察官にはできないことであり、民間諮問探偵だからこそ──もちろん、見つかればブタ箱行きの犯罪であることを覚悟の上で──できることでした。ところが、事件は意外な展開を見せることになるのであります。 (ホームズとワトスンはある夜、ついに夜陰に乗じてミルヴァートン邸へ侵入し) (シドニー・パジェット画) 《犯人は二人》より