シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士

第4章 悪党の系譜　2. 個人的犯罪　
　


　3)　カルヴァートン・スミス
　《瀕死の探偵》はホームズ物語のなかでも一風変わった、独特の味を持った作品ですが、ここに出てくるのがカルヴァートン・スミスという悪党であります。ホームズは《まだらの紐》という事件で「医者が悪事をはたらくと、第一級の犯罪者になるね。どきょうはあるし、知識もある」と言いました。スミスは医者ではありませんが、スマトラに農園を持つ極めてきちんとした性格の農園主であり、彼の農園が医者の助けなどとても頼めない僻地(へきち)にあったことから、ある種のスマトラの風土病が発生したときに、自分自身でその研究を始め、いまではその病気に関しては医者をしのぐ権威者となっていたのであります。
　ある日ハドスン夫人がワトスンを訪ねてきて、ホームズが病気で危篤状態だと伝えました。彼女が語るには「この三日間、悪くおなりになるばかりで、もう一日もつかどうかと思うほどです。それでいて、お医者さんを呼ばせないのですよ。（略）わたくし、もういたたまれなくなりまして、『ホームズさん、あなたがなんとおっしゃっても、今すぐに、お医者を呼んで参ります』と申し上げました。そうしましたら、『それでは、ワトスンを』とおっしゃいます。一刻の猶予もできません。そうしないと、先生、生きている間にお会いになれないかもしれませんよ」と言うのです。驚いたワトスンは大急ぎでホームズのもとへ駆けつけましたが、その途中馬車のなかでハドスン夫人は「ロザハイズにあるテムズ河近くの横丁で、ある事件を調査しておられました。そこで、あの病気を拾ってこられたのでございます」とワトスンに語ったのです。　
　ホームズの姿は見る影もないほど痛ましいものでした。顔はやせこけ、熱のために、目はうるみ両頬が赤く、唇には黒いかさぶたができていました。手は絶えず小刻みに震えているし、声はかすれて途切れがちであったにもかかわらず、ワトスンが近寄ろうとするとホームズは「そばに来てはいけない！　すぐ戻るのだ！　ワトスン、近くに寄るのなら、帰ってもらうよ」と、危険が迫っている時にしか見せない、鋭い命令口調で言ったのであります。そして「スマトラから入ってきたクーリー病だ。（略）これにかかったら、絶対に助からないし、恐ろしい伝染力があるということだ」と説明した。ワトスンが「君が何と言ったって、ぼくは君の症状を診察し、治療するよ」と言うと、ホームズは「どうしても医者にかかる必要があるというのなら、せめて信頼のおける何ものかにしてほしいね。確かに君の友情は信頼できる。しかし、事実は事実だよ、ワトスン。何と言ったって、君は経験の少ない、ごく平凡な資格しかない、全科開業医にすぎないからね。こんなことはいいたくなかったけれども、こういわせたのは君なのだよ」と言ったので、ワトスンはひどく傷つきますが、それでも二人の友情にひびが入らないところはワトスンの人間としての度量の大きさでありましょう。ワトスンは言いました。
見る影もないほど痛ましいホームズ
(ウォルター・パジェット画)
《瀕死の探偵　部分拡大図》より


「そういうことを言うのは、君らしくないよ、ホームズ。そういう言い方からも、君の精神状態は普通じゃない。まあ、君がぼくを信頼できないというのなら、無理にとは言わないさ。サー・ジャスパー・ミークでも、ペンローズ・フィッシャーでも、誰でもいい、ロンドンで最高の名医を呼んでこよう。（略）熱帯病に関しての、一番の権威者と言われているエインストリー先生が、今ロンドンに滞在中だということを、ぼくはたまたま聞いている。どんなに反対してもだめだよ、ホームズ。今すぐに、ぼくは彼を呼びに行く」
　すったもんだの押し問答をしたあげく、ついにホームズは、それならロウアー・バーク街13番のカルヴァートン・スミス氏を呼んできてほしいと言ったのです。ワトスンが「そういう名前は聞いたことがないけれどね」と言うと、ホームズが「そうだろう、ワトスン。今、この病気に最も詳しい人物は、医者ではなくて、農園主だと聞いたら驚くだろうね。カルヴァートン・スミス氏は、スマトラに住む名士で、今ロンドンに来ている」のだと言い、ただ「ぼくたちの関係は、ちょっと気まずくなっているのだ。彼の甥のことでね。──怪しげなことが行われてのではないかという疑いをもったので、彼にそれをほのめかした。その青年は、酷い死に方をしたのだ。そういうことがあって、あの男はぼくを恨んでいる。彼をうまく丸め込んでほしいのだ、ワトスン。頭を下げ、拝み倒してでも、何とかここへ連れてきてくれたまえ。ぼくの命を救えるのは、あの男だけ──そう、あの男だけなのだ」と苦しい息の下からホームズが訴えました。ここにはホームズが語ったことを彼がよどみなく話したかのように書き記してはありますが、実際にはホームズが息も絶え絶えに喘ぎながら、苦痛のために、両手を固く握りしめ、途切れ途切れの言葉で語ったものだとワトスンは書き記しています。
　ワトスンの記述によれば、スミスの風体(ふうてい)は「きめの粗い、脂ぎった大きな黄色味をおびた顔に、あごは二重あご、ふさふさした赤茶色の眉毛の下には、愛想の悪い灰色の二つの目が、射すようにワトスンをにらみつけていた。とがった毛のない頭に、小さなビロード製の喫煙帽を、ピンクの曲線がある側に傾けていきにかぶっていた。頭は異常に大きいのだが、目線を下に移すと、体は驚くほど小さく貧相で、肩と背中は曲がっていた。子どもの頃にくる病を患ったことのある人のようだった」とあります。
　ワトスンがホームズからの使いで来たこと、ホームズがある仕事の調査のために波止場で中国人の船員のなかに入って働いたときに東洋の風土病をうつされ、いま深刻な病状にあることを伝えると、スミスは意外にもすんなりと、ホームズを診てやってほしいというワトスンの願いに応じてくれたのです。一足先に帰ったワトスンは、身を隠してスミスとのやりとりを聴いていてくれとホームズに頼まれます。ワトスンがベッドの傍の隙間に身を隠すとまもなく、スミスが病室に現われました。
「ああ、あなたですか、スミスさん？　まさか、おいでいただけるとは、思いもよりませんでした」ホームズがか細い声で言うと、相手は笑いながら言いました。
カルヴァートン・スミス
(ウォルター・パジェット画)
《瀕死の探偵　部分拡大図》より

「来る気はなかったがね。だがこの通りやって来た。『燃えさかる炭火』だよ、ホームズ──『燃えさかる炭火』ってやつだ」〔この部分はベアリング-グールドの「詳注版　シャーロック・ホームズ全集」（小池滋監訳　ちくま文庫　1997年〜1998年刊）の訳によりました。 なぜならば、この 『燃えさかる炭火』という表現は「旧訳聖書」の『箴言』 第25章第21節〜第22節、または 「新訳聖書」 の 『ローマ人への手紙』第12章第20節にある「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積む(仇に恩をもって報い、相手を恥じ入らせる)ことになり──」 からの引用でありますが、「河出書房新社版ホームズ全集」 では、この部分が 『敵に塩を送る』と意訳されていて、読者にとって意味は理解しやすいのですが、これでは引用された「聖書」との文言上の結びつきがないからであります〕
　ホームズ物語のおもしろさの一つは、悪党でもこのように「聖書」などから気の利いた一句を引用してみせるところにあります。若い時にカトリック教徒として教育を受けた作者ドイルの薀蓄が顔を出したものといえるでしょう。カルヴァートン・スミスが言いました。

「おまえももう、お先まっ暗だな。四日めに、ヴィクターの奴も、あの世へ行ってしまった。元気で力強い青年だったがね。おまえがあのとき言ったように、ロンドンの真ん中で、あいつがアジアの奇病に罹るとは、まあ、不思議と言うほかはないだろうな。それもだ、わしが特別熱心に研究していた病気というのだから。たしかに、奇妙な一致というやつだな。ホームズ。それに気がついたところは、おまえもさすがだった」
「あなたが仕掛けたのだと、ぼくにはわかっていたのです」
「なるほど、わかっていたのか。そうか。そう言ったって、その証拠をあげることはできなかったな。それはそうと、わしのそういう噂をさんざん撒き散らしておいて、今度は自分が困ったら、ぺこぺこと頭を下げてわしの助けを求めてくるとは、一体全体どういう了見なのだ」
「なんとかしてください！（略）──誓ってもいい。治してくだされば、あの事は忘れます」ホームズは苦しみ喘ぎながら哀願した。
「何を忘れると言っているのだ？」
「もちろん、ヴィクター・サヴェージが死んだ件についてです。今しがた、あなたは、自分が殺したと認めたも同様のことをおっしゃったが、そのことを忘れようと言っているのです」
「忘れたって、覚えていたって、おまえの勝手だ。おまえが証人台のボックスに立つことはあるまい。（略）おまえはまったく別のボックスに入るのだ。棺桶さ。わしの甥が、どうやって死んだかを、おまえが知っていてもだ、そんなことは、どうでもいいことさ」

　そしてスミスは、ホームズが彼の甥と同じ病気にかかったのは、イーストエンドの下町でうつされたものではなく、スミスが小包で郵送した象牙の小箱からばね仕掛けで飛び出した針のせいであることを、冥土への土産とばかりにホームズに語って聞かせました。そしてそのあとに、あっというどんでん返しが起こるのであります。「河出書房新社版ホームズ全集」第八巻所収の《瀕死の探偵》におけるＯ・Ｄ・エドワーズの注釈によりますと、1892年の夏、ドイルは大学時代の恩師でもあり、ホームズのモデルでもあった外科の主任教授ジョウゼフ・ベル博士から、将来のホームズ物語に細菌を用いた犯罪を題材にしてはどうかというヒントを投げかけられたのですが、《瀕死の探偵》が発表されたのは1913年でありますから、この着想が実現したのはじつに二十年越しだったことになります。