シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第5章　警察と警官たち 　 　8. ベインズ警部 　ベインズ警部は《ウィステリア荘》に登場するサリー州警察管区の警部であります。1895年（注）3月のある日、ジョン・スコット・エクルズという人物がホームズの部屋を訪れますが、そのエクルズを殺人の容疑で追跡していたベインズ警部とグレグスン警部もまたホームズの部屋にたどりつきました。ワトスンはベインズ警部についての印象を次のように記しています。「赤ら顔で、太った、たくましい体格をしていた。ともすればまぬけな印象を与えそうながさつな顔つきだが、頬と眉に深く刻まれたしわにすっかり隠れるような、くぼんだその目が，特別な鋭い輝きを放っているおかげで、なんとかまっとうさを保っていた」 　ホームズはベインズ警部から、それまでの事件の経緯を聞き「あなたの仕事ぶりは、何をするにも、迅速で手ぎわが実にいい」と誉め、「警部、こうした特異で、学ぶことの多い事件を担当できるとは、あなたも本当に幸運でした。こう言っては何ですが、あなたの力量ならもっと出世されて当然です」と言いました。 ベインズ警部 (アーサー・トゥイドル画) 《ウイステリア荘　部分》より 　するとベインズ警部がうれしそうに「ホームズさん、おっしゃっていただいたとおりです。こういう地方勤務で、わたしどもは活気を失っています。こうした事件があると、格好の機会が提供されるわけですから、チャンスをつかみたいものです」と答え「あなたはすでに高名ですからいいですが、わたしのほうは、なんといっても、これから自分の名を挙げねばなりません。ですから、あなたの助けもなしに事件を解決できたと、後々、宣伝できるほうが、わたしとしては嬉しいわけなのです」 　それを聞いたホームズは機嫌よく笑い声を上げて言いました。 「そう、そう、警部。あなたはあなたの道を行き、わたしはわたしの道を行きます。しかし、私の捜査結果は、あなたさえよければ、いつでも自由に使ってくださって結構です」 　ホームズは、ベインズ警部が、やり方は違っていても、ホームズが考えていたのと同じ犯人を狙っていたことを知り、また、おとりの犯人を逮捕し、新聞報道を通して真犯人を油断させるという、ホームズがよく使う手で、犯人が動き出すのを誘ったことを知って「あなたは必ずこの職業で大成されますよ。なんといっても、これほど鋭い勘と直観とに恵まれているのですからね」と言ってベインズ警部を賞賛し、それを聞いたベインズ警部は嬉しさで思わず顔を赤らめたのでした。ホームズ物語に出てくる警察関係者の多くがホームズの引き立て役を演じているのに対して、ベインズ警部は唯一、ホームズと対等に力を競った警部だったのであります。 注 ：　 　従来出版されたホームズ物語では、すべてここが1892年と誤って書かれていましたが 「河出書房新社版ホームズ全集」（ということは、翻訳の底本であるオックスフォード版の原本）において初めてその誤りが訂正されました。 つまり、ホームズが悪の帝王モリアーティ教授との決闘で死んだと考えられていた、いわゆる「大空白期間」は1891年5月から1894年4月までの３年間が妥当であることは多くのシャーロッキアンによって認められているところであります。そうだとすると、1892年にホームズが《ウィステリア荘》の事件を解決したということはあり得ないことになります。「河出書房新社版ホームズ全集」の注釈によれば、ドイルが「ついうっかりして、本来は《空き家の冒険》の事件が起きた翌年に年代を設定するつもりが、《最後の事件》の翌年に設定してしまったのである」としています。 ベインズ警部のトップへ戻る