シャーロック・ホームズQ＆A
質問

ホームズとワトスンが通っていた「トルコ式風呂のサービス」とはどういうものなのでしょうか？　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

(２０１８年５月アップ）
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　

(質問者　みっちょん）
 
１９１１年に発表された《レディ・フランシス・カーファックスの失踪》事件の冒頭で、ホームズはワトスンの履いている靴をみながら「どうしてトルコなんだい」と問いかけます。しかし、ワトスンが「靴とトルコ風呂」の関係を理解できないので、「風呂だ！風呂のことだよ！どうして、元気の出る英国式の風呂じゃなくて、力は抜けるし金がかかるトルコ式風呂に行ったんだい？」と言うと、ワトスンは「ここ二、三日どうもリューマチみたいで、老い込んだ気分だったもんでね。トルコ風呂は少しずつ身体を回復させる、医者の世界で言うところの変質療法ってところだ ----- 気分を一新させ、身体をきれいにそうじする」と言い訳のようなことを言ったあとに「自分の靴とトルコ風呂」がどう結びつくのか教えて欲しいと言いました。
　そのホームズの返事は、何時ものワトスンの靴ひもの結び方と違って「ていねいに二重の蝶結び」にしてある、靴の状態から靴屋ではない、となると風呂の下足番が靴ひもを結んでくれたんだろう、と「トルコ風呂問答」を終らせています。
　このような、客の靴ひもを結んでくれるという過剰のようなサービスが本当にあったのかどうか、当時のロンドンのトルコ式風呂に入った経験を記した日本人のエッセーをご紹介します。
(目次では土耳古となっていますが、本文の題名及び本文では土耳其と表示されています)

回答

ロンドンの土耳其(トルコ)風呂
　　　岡本鶴松(註１)著『異国の華を尋ねて』より　大正十五年(１９２６）九月刊行　福永書店

　日本の銭湯には薬湯があって其効能書を見ると寸白(註２)、疝気(註３)、痔疾、淋病、さては胃腸病から脳病にまで利くように書いてある。四百四病に効能のあるのは恐らく日本の温泉か薬湯ばかりだろう。然し此等の病気を治すのを目的として銭湯へ行く者はない、銭湯は垢を洗いおとすのが目的で序でに病気が治れば儲けものだ。だから病気が治らなくても誰も尻を持って来ない(註４)。
　倫敦の土耳其風呂は之と反対で身体の冷やリウマチを治すのが目的で垢を洗い落すのは付けたりだ。つまり病人の行く処だ。然し僕は垢を落す目的で土耳其風呂へ行った、丁度日本に居る時は痔を治すつもりで銭湯へ行くように、(垢を落すなら自分の家に風呂がある)。僕は不精な人間で自分で洗うのが面倒臭いから外国の風呂には閉口した。
　日本に居る時は自分の家の風呂なら女中か女房が洗って呉れる。銭湯へ行けば背中だけは三助(註５)が洗ってくれる。西洋の風呂では全部自分で洗わなければならない。時によると湯加減迄自分でさせられる。そこで思いついたのは土耳其風呂だ。土耳其風呂には三助も居る。お菓子もある。お茶も出る。理髪人も居る。爪も切って呉れる。成程リウマチで身体の自由の利かない者には理想的だ。顎を動かせば何でも用が足りる。だから土耳其風呂は病人か不精者の行く処である。
　先ず中へ入って衣服を脱ぐとタオルを二個呉れる。一を腰に巻きつけ一を肩へかけて風呂場へ下りて行く。タオルを腰へ巻くから日本の銭湯のように小さな手拭で変な格好をして局部を隠す必要はない、風呂場と云っても湯も水もない、スチームが通って居るだけである。其スチームの熱度で身体が温まり汗が出て来る。室に依って温度が違う、最高二百七十度位(註６)だったと思う、こんな温度の室には五分と居られない。
　身体が十分温まったら三助の居る洗場へ行く。此処がつけたりの垢落し場だが僕には此処が主要目的だ。木製の小さい寝台のような上へ横臥すると三助は日本の車力(註７)の持って居る不格好な手袋ようのものをはめて、それで身体を擦ると鹿尾菜(ひじき)のような垢がポロポロ出る。
　此手袋は垢擦なのだ、指の間の細かい部分は指で擦る、日本の三助は背中だけしか洗わないが此処の三助は頭から足の先、局部迄も洗って呉れる。不精者にはこんな都合の好い処はない。此三助の図体の大きい事夥しい、体量三十貫(註８)は確かにある。手を開くとヤツデの葉のようだ。手で心臓あたりを擦られる時は心臓麻痺でも起しそうだ。
　倫敦の雑誌にこんな話が書いてあった。三助が或客を洗った後其背中を強く三つ叩いた。客が理由を訊くと丁度ベルが壊れて居るので此客の背中を拝借してお次の番のお客を呼ぶようボーイに合図をしたのだそうだ。成程客も局部迄洗わせる程不精になって居るから三助も客の背中をベルの代用に使う程不精なのだろう。
(新漢字、新仮名遣いに直してあります)
　さて、金がかかる(註９）とか、力が抜けるなどとトルコ風呂に対して否定的なことを言っていたホームズですが、１９２５年発表の《高名な依頼人》ではワトスンに「ホームズもわたしもトルコ式の風呂に目がない」と言われるようになり、ノーサンバーランド・アヴェニューにある入浴施設の乾燥室でワトスンと一緒にまったりとした時間を過しています。
　発表年月では１４年も間があいていますが、年学的には二つの事件には「三ヶ月」しか間があいていません。これは、ワトスンに誘われて試しに行って岡本鶴松が書いているサービスを体験すると、評価が抜群に上がるほどホームズのお気に入りになったのでしょうか。
註１　岡本鶴松(？〜１９４５）１９１１年に東京朝日新聞社に入社。１９２１年から朝日新聞社員としてロンドンに滞在。
　　　本書を刊行した１９２６年には帰朝している。１９３６年大阪朝日新聞社外報部長。
註２　寸白：(すばく)人体の寄生虫
註３　疝気：(せんき）下腹部の痛みの総称
註４　尻を持っていく：責任の所在を持ちかける
註５　三助：(さんすけ）銭湯で利用者の背中を流す仕事をする男性従業員
註６　二百七十度：摂氏だと百三十二度くらい
註７　車力：(しゃりき）車両を牽いて荷物の運送を仕事にしていた人
註８　三十貫：約１１２キログラム

註９　金がかかる：入浴料は３シリング６ペンス(午前７時から午後７時まで）、２シリング(午後７時から午後１０時まで）
　　　　　　　　　ワトスンの年金は１日１１シリング６ペンス

　ホームズ物語の邦訳は光文社文庫　日暮雅通訳の『新訳シャーロック・ホームズ全集』　より

回答者：関矢悦子　協力：熊谷彰氏