ウインチェスター(ぶな屋敷・ソア橋・白銀号事件） 　ウインチェスターはホームズが手掛けた《ぶな屋敷》《ソア橋》《白銀号事件(シルヴァー・ブレイズ)》と、三つの事件の舞台となっている。ウインチェスターはロンドンの西南西約百二十キロにあり、ハンプシャーのほぼ中心に位置する大都市である。古くはアングロサクソン時代ウェセックス王国の首府であり、ノルマン人の征服後もしばらくはこの状態が続いた。 　市街地はイッチン川の州上にひろがり、あの有名な英国でも最大級の大聖堂はその南部にある。 　《ぶな屋敷》で、ホームズとワトソンはウインチェスター近郷の家に住み込む家庭教師ハンタ嬢から事件捜査の依頼を受けた。依頼者はウインチェスター市街地にあるブラックスワン・ホテルで十二時に待っている、との電報をよこしているので、ホームズとワトソンはその地に向けて出発した。この鉄道と時刻については諸学者が問題点を指摘して議論されているが、それは後に触れる。　ブラックスワン・ホテルは当時、実在し、旅行案内『ベデカ・グレイトブリテン』の一八九七年版にちゃんと載っている。ちなみに、同書によると料金は、部屋代四シリング六ペンスから、夕食三シリング六ペンスからとなっている。現在はホテルは無く、同じ位置に「ブラックスワン・ビル」が建っている。ここで落ち合った三人はそこから五マイル半離れた事件現場「ぶな屋敷」に向かう。ぶな屋敷は三方をサザートン卿の領地の森に囲まれて、一方が玄関からサウザンプトン街道に至るまでゆるやかな斜面の野原になっている屋敷である、となっている。ゴードン・シューウエルは屋敷の場所を調べ、オッターボーンとチャンドラーズ・フォードの間にある、としている。 《ぶな屋敷》でホームズが「ブラッドショー鉄道時刻表をちょっと調べてくれないか」とワトソンに言う場面を思い出して頂きたい。 　ホームズ時代にロンドンからウインチェスターへは三つの経路があった。ウオタルーからオルダショツト経由、同じくベイジングストーク経由あるいはパディントンからの経路である。ブラックスワン・ホテルで正午にハンタ嬢と約束したホームズとワトソンはロンドンを九時半に出発し、オルダショットを眺め、十一時半にウインチェスターに着いたことになっている。 　これについてドネガル卿と、クラップは、オルダショット経由では約束どおりの時刻にホテルに到着できないと提言している。　 　19世紀末頃の線路図 　しかし、ベイシングストーク経由ならばオルダショット駅は経由しないものの、車窓からオルダショットは遠望でき、時刻の点もほぼ適合する。彼等はこのルートを利用したのであろう。パディントン発だと時刻は適合するが、オルダショットは見えない。ウエラーはこの説を支持しているが、オルダショットについての説明はない。 　ホームズの発言でワトスンが『ブラッドショー鉄道時刻表』でいちばん便利な列車を確認してから、彼等はベイカー街を出発したのである。 《ソア橋》はウインチェスター近郷のソア・プレイスに住む金鉱王ニール・ギブソンがホームズに依頼してきた事件である。夫人が邸内にあるソア橋の上で射殺されて、家庭教師のダンパー嬢が容疑者としてあげられているが、助けてほしいというのである。 　事件捜査に向かったホームズとワトソンはウインチェスターで支線の汽車に乗り換えて、短い旅程ののちに降り立った駅はウインチェスターから東北に約四マイルのところにあるイッチン・アバスである事に緒家の間で異論はない。そこから二マイル程のところに大きな農家を含むカントリー・ハウスがありそれがソア・プレイスであろう事も疑問をはさむ余地はない。川が流れていてそれが敷地内を通過するところで二個所ほど幅が広くなっていて瓢箪形を呈している。カントリー・ハウスは現存するが、ソア橋が架 かっているはずのくびれた部分に石橋は発見できない。それは事件が解決した後に撤去されたのであろう、と説明されている。 　《白銀号事件》も後半の事件解決部分でホームズとワトソンが、白銀号の出走することになっているウェセックス・カップ・レースを見るため、ウインチェスター行きの汽車に乗っている。依頼人のロス大佐とウインチェスター駅で落ち合った彼等は競馬場に向かった。この場所はウインチェスターの北約四マイルのところにあるウオーシー・ダウンズのレース・コースであろうとの説が有力である。 《白銀号事件》は多くの矛盾を含んでいる事で有名であるが、ここではウインチェスターからみの事のみをとりあげておこう。ウオーシー・ダウンズに確かにレース・コースは存在し、現在も馬場として使用されているが、未だかってここでは公式の競馬が開催された記録はないとの反論があり、結論は見出されていない。 　事件の解決後、ロス大佐はホームズおよびワトソンと一緒に鉄道でロンドンに帰ってくるが、この時、プルマン車に乗ってヴィクトリア駅に帰って来た、となっている。プルマン車とはアメリカ製の豪華客車で、ヴィクトリア駅とはロンドンの終着駅である。 当時、プルマン車はヴィクトリア駅から東南部方面に向かう列車に連結されていたので、一見、この記述に矛盾はないように思われるのであるが、ところがどっこい、ウインチェスターからロンドンに向かう列車はウオタルー駅あるいはパディントン駅に到着するので、これはおかしいという事になる。しかもウインチェスターを通る路線の定期列車にはプルマン車は使用されていない。しかし、エドガー・Ｓ・ローゼンバーガーはこれに反論し、ボンマスとウオタルー間に週二回運行された臨時列車にはそれが連結されていた事実ををあげている。だがこの反論にも弱点があり、同列車はサウザンプトンを発車するとロンドンのクラパムジャンクションまで無停車で、従ってウインチェスターからは乗車できない。この論争もやはり未だ結論に到達していない。 　現在、ロンドンからウインチェスターに行くには、ウオタルー駅から出発する。日中は十五分毎に発車するインター・シティ(ラピッド)のサウザンプトン・セントラル行き(ワイマスあるいはボンマス行きを含む)に乗車して一時間前後でウインチェスターに到着する。ホームズ時代に存在したパディントン発およびオルダショット経由の路線は無く、イッチン・アバスおよびウオーシー・ダウンズの駅も現在は無い。（松下了平）