あるシャーロッキアンの年賀状

あるシャーロッキアンの年賀状　「ぼくの年賀状五十年」より抜粋

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　by 水野雅士

はじめに
「古稀」とは杜甫の詩「人生七十古来稀なり」からきているそうだが、いまや七十歳は稀ではないばかりか、
わが国の国民の平均寿命は男が七十八歳、女が八十四歳（平成十三年厚生労働省発表）というから、ごく当た
り前のことになってしまった。これは生活水準の向上と医学の進歩による当然の結果といってしまえばそれま
でであるが、いざ自分が満七十歳を迎えてみると、いささかの感慨なしとしない。とくに戦後間もない混乱期
に満六十三歳で亡くなった父よりも、自分がすでに七年長生きしていることを思えば──　古稀を迎えたのを
機会に、この五十数年間友人知人に出してきた年賀状の控えを読み返してみたところ、そこには個人的な生活
の報告ばかりでなく、背景になっているそれぞれの時代が垣間見えていて、けっこう変化が多く、面白い時代
に生を享けたことに改めて気がついた。考えてみれば、それも戦後六十年間平和だったお陰であり、平和の有
り難さが身にしみる思いである。恩人、先輩、同僚、後輩、それに仕事上で関係があった方々まで入れれば、
最盛期には出した年賀状の数が毎年千枚におよんだが、定年退職して七年経ったいまでは半分に減った。
　それでも何人かの方が本にしませんかといってくださる声に励まされ、素人の手すさびながら、パソコンの
プリンターでこの小冊子をまとめてみた。年賀状を古い順にただ並べるだけでは面白くないので、各年ごとに
その年の特徴を拾ってコメントをつけたが、全体を貫く筋書きがあるわけではない。五十年という歳月自体が
物語といえばいえるかもしれない。ひとつの記録を達成したスポーツ選手がよく「これは通過点にすぎない」
と言うが、この小冊子もまた「七十歳というひとつの通過点」の作業にすぎない。とすれば、次なる目標は第
二集を出すことになるのであろうが、あと何回年賀状が書けるものやら、それは「神のみぞ知る」である。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2005年　水野雅士

最初の年賀状　1954年の正月といえばまだ高校の二年生だったが、自分で初めて印刷した年賀状だっただけに印象が強い。午年にちなんで、象形文字の「馬」をできるだけ現物に近い形にデザインした。当時コピーの手段といえば、謄写版方式しかなかったが、初めて印刷した年賀状としては「ウマく描けた」と独りで悦に入っていた記憶がある。　前年（１９５３年）は、米国でアイゼンハワーが大統領に就任し、ソ連ではスターリンが死去した年であり、また朝鮮動乱の休戦協定が成立し、三年ぶりに戦火が収まった時期だった。国内では２月にＮＨＫが、８月に民放（日本テレビ）がそれぞれテレビ放映を開始したが、テレビを持っている家庭はまだ限られていて、街頭のテレビに人が集まる時代だった。朝鮮動乱の特需景気があったとはいえ、国民一般の生活はまだまだ貧しかった。
1992年（平成四年）　家族のシャーロック・ホームズ的側面をとらえてみた。このころはまだシャーロッキアンと呼べるほど熱心なホームズ・ファンではなく、ホームズは、クロフツのフレンチ警部やヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス、カーのヘンリー・メルヴェール卿やギデオン・フェル博士、クイーンのエラリー・クイーン、クリスティのポアロらと並ぶ名探偵の一人にすぎなかった。　前年（1991年）は正月から米国を中心とした多国籍軍によって湾岸戦争の火蓋が切られたが、実際の戦争がまるでスポーツのようにテレビに放映され、茶の間でリアルタイムに観戦できる時代になったことは、いささか衝撃的であった。２月にはクウェートの解放が完了し、わが国政府は機雷除去のため、戦争終了後のペルシャ湾岸へ海上自衛隊掃海部隊を派遣した。　年末にはゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任し、エリツィンかこれを継承。ソ連の弱体化によって東欧諸国で民族紛争・独立運動が続出していたが、12月26日、ソ連最高会議がソ連の消滅を宣言。ソ連の国家社会主義はロシア革命から七十四年で終止符が打たれた。
1995年（平成七年）　シャーロック・ホームズをテーマにした第二作である。ホームズのセリフのなかからの抜粋であるが、英語の原文を入れたのでやや煩雑になった。　前年（1994年）は、政界がめまぐるしく動いた年だった。細川護熙首相は佐川急便からの一億円借り入れ問題で辞任。あとを継いだ新生党の党首羽田孜内閣も、連立政権を離脱した社会党抜きで発足したが、二か月で瓦解。混迷の末に社会党党首村山富市を首班とした自民･社会・さきがけの連立内閣が誕生し、戦後二大対立勢力だった自民と社会両党による連立は内外の注目を集めた。６月には長野県松本市で「サリン」らしき物質で七人が死亡。容疑者と誤認された一市民がマスコミに追いかけられるという被害を被った。　前年は５月にＦ‐１の人気ドライバー、アイルトン・セナがイタリアのサンマリノ・グランプリで事故死。６月にニューヨークの外国為替市場で円が初めて１ドルあたり100円を割って99.85円の円高を記録。７月に日本人女性初の宇宙飛行士向井千秋が乗ったスペースシャトル「コロンビア」が打ち上げに成功。10月には大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した。
1999年〔平成十一年〕　シャーロック・ホームズをテーマとした三つ目（ホームズ語録としては二つ目）の作である。前年（1998年）８月に仕事をリタイアしたので、北九州における単身赴任生活も終わった。東京へ帰ってきて自由になった時間の一部をシャーロック・ホームズの世界へ向け始め、日本シャーロック・ホームズ･クラブの活動にも参画するようになった。前年もまた大型倒産、企業のリストラ、失業者の急増、金融危機が続き、バブル崩壊はますます深刻の度を増した。７月の参院選では自民党が惨敗し、橋本龍太郎首相が総裁辞任を表明して小渕恵三内閣があとを受け継いだ。またこの月には、和歌山市内で町内会の夏祭りに供されたカレーライスに猛毒のヒ素が混入されていたため四人が死亡するという奇妙な事件が発生し、元保険外交員だった女性が逮捕された。国際的にはインドとパキスタンで核実験が相次いだが、これは1968年に米・ソ・英・仏・中国の五か国間で締結された、いわゆるＮＰＴ（核不拡散条約）体制を根底から揺るがすものだった。
2000年（平成十二年）　前年（1999年）に続いて、再びホームズ語録を取り上げているのは、前年の６月にホームズに関する研究とパロディを抱き合わせた「ホームズ探偵学序説」という処女作を出版したばかりだったので、ホームズ熱にうかされ始めた証拠といえそうである。前年もわが国の経済界は不況を脱出し得ないまま、リストラと合併に追われた。２０世紀最後の年を迎えるにあたって「ミレニアム（千年紀）」という言葉が流行り、年末から新年へと移行するときには、いわゆる「二千年（Ｙ２Ｋ）問題」（注）でコンピューターに関わる関係者は全国いたるところで緊張の一瞬を迎えたが、大きなトラブルは起らなかった。わが国のコンピューターのメンテナンス技術と運用のレベルはさすがだった。　(注)２０世紀に一挙に発達したコンピューター・システムは、導入初期には年号を認識させるのに19××年の下二桁のみを使ったものが多かったので、2000年を迎えて下二桁が00となると、コンピューターはこれを1900年と認識するため、さまざまな分野で大混乱が起きるのではないかと懸念された。しかし事前に十分なシステム変更の対策がとられたので大きな混乱はなかった。