脱線しているとキリがありませんので、ここらでホームズ物語の魅力を整理しておきます。結論から先に言えば、それは「謎解きだけではない多重構造の魅力」ということになります。
　まずホームズ物語の第一の魅力は、ホームズの非凡な観察と推理によって真相が解明されていくときに感じることができる知的昂奮であります。ところがじつは、本来探偵小説の大きな魅力の一つは、作者が隠した伏線を、読者がいかに早く見破って真相に到達することができるかという、いわば作者と読者の間の火花を散らす知恵比べの緊張感にあるのですが、この点でホームズ物語は、まだ探偵小説というジャンルが生まれたばかりであったため無理もありませんが、手がかりとなる重要な事実やデータが、作者や探偵だけにわかっていて読者には公平に開示されていない「現代の本格派の厳しい基準に照らして見るとフェアであるとは言い難い」ものがかなり多いのであります。
　それでもなお物語の終盤で、ホームズがその天才的な観察と推理によって快刀乱麻を断つがごとくに事件の謎を解き明かしてゆくときに、読者がその知的快感を感じることができるのは、少なくとも探偵小説が探偵小説であるための絶対条件がきちんと守られているからであります。その絶対条件というのは、事件がどんなに不可能に見えても、またどんなに超自然的で不思議な現象に見えても、最後には必ず原因と結果を結ぶ因果関係が合理的・科学的に解明されなければならないという鉄則であります。
　さて通常の探偵小説では、観察と推理は事件の解決を中心に展開されますが、ホームズ物語の場合は、事件の解決のためにはもちろんのこと、観察と推理というテーマそのものが前面に押し出されているのが特徴的でありまして、それはあたかも、面白い探偵小説にはとくに事件など起こる必要なんかないんだと、作者のドイルが主張しているようにさえ見えるのであります。つまり日常茶飯事における観察と推理がテーマになる場面が、ホームズ物語のなかには、数えきれないほどたくさん散りばめられています。
　たとえば、これは《緋色の研究》の例ですが、ワトスンはホームズに初めて会ったときの情景を記録していますが、ホームズと初対面の握手を交わしたとき、いきなりホームズに「あなたはアフガニスタンに行っていましたね？」と言われ、ワトスンは「えっ、どうしてそれが？」とびっくりして聞き返したのであります。ホームズはその場では「いや何でもありません」と言って、くすくす笑うだけだったのですが、後日、そのときの推理の過程をワトスンにきちんと説明しているのであります。ホームズの説明は次のようなものでした。
「つまりこういうことだよ。『この紳士は医者のようだが、ちょっと軍人タイプでもある。すると軍医に違いない。それに熱帯地域から帰ってきたところだ。顔はまっ黒だが手首が白いから生まれつきの色黒なんじゃない。顔がげっそりやつれているところを見ると、だいぶ苦労があって病気もしたのだろう。左腕を負傷したらしい。動かし方がぎこちなくて不自然だ。イギリスの軍医がひどい苦労をして、腕に負傷までするような熱帯地方とはどこか。アフガニスタン以外にはない』これだけ考えるのに一秒とかからなかった。そこでアフガニスタン帰りですねと言ったら、きみがびっくりしたというわけさ」
　さらりと読み流すとまことに鮮やかな推理であります。しかしながら少し注意深く読みますと、なにかおかしいのであります。1880年から1881年にかけて起こった第二次アフガン戦争は、当時の英国における最大の国家的関心事でしたから、日に焼けた熱帯帰りの軍人風の男を見て「アフガニスタン帰り」と推理するところはまだいいいとしても、なお次のような疑問は残るのであります。それは「医者のようだが、ちょっと軍人タイプでもある。すると軍医に違いない」とホームズはあっさり断定しましたが、なぜこのように言い切れたのかということであります。
　普通に考えれば、「医者のような人」には本当に医者である人と医者ではない人との二種類があり、「軍人タイプの人」も本当に軍人である人と軍人でない人の二種類があります。したがって実際にはこの二組を掛け合わせた二×二＝四通りのケースが考えられるわけであります。すなわち、医者で軍人である軍医と、医者ではあるが軍人でない人、それに医者でない軍人と医者でも軍人でもない人の四種類の可能性があるはずであります。それにもかかわらず、ホームズはなぜ即座に「すると軍医に違いない」と断定できたのでしょうか。
　ホームズは常々、外見を観察することによってその人の職業を言い当てる訓練を積んでおりましたので、彼の頭の中には、さまざまな職業が外見におよぼす特徴を整理したスクリーニング装置が備わっていたのであります。だから「軍人タイプの男」を軍人と断定するのも、彼の頭のなかのスクリーニングにかけてみて、軍人が持つさまざまな特徴に合致する点が二つ､三つひっかかれば、軍人だと判断してまず間違いはないのであります。
　ドイルはホームズ物語を書く上で卓抜なプロットと斬新なトリックをたくさん生み出しています。彼は彼の後に続く多くの探偵作家が真似たり、変形して使うことになるトリックの多くの基本パタンを考え出しました。また事件の種類を見ましても、殺人事件ばかりでなく、失踪､盗難、監禁、詐欺から家庭問題､身の上相談、さらには外見上事件に見えた事故に至るまで､きわめて多彩で変化に富んでおり、そこにドイルの探偵小説作家としての柔軟な思考力というか、非凡な才能が見てとれるのであります。しかしさすがのドイルも、毎月斬新で良質なアイデアなりプロットなりを思いつくのは相当の負担になったらしく、あとで触れますが、ホームズを抹殺しなければならないと思うようになっていき、そしてついにそれを実行するのであります。
　それはさておき、ホームズ物語はこのように、まことに内容が多彩でありますが、主たるテーマは常に一貫して「観察と推理」の素晴らしさを読者に見せることにあり、同時にそれが「正義の実現」であるところが読者の共感を呼ぶというか、あらゆる人間に共通する感情を刺激するので、これがまた何ともいえない魅力を発散していると思うのであります。