生涯学習カリキュラム「自悠大学」講座講演録 　シャーロック・ホームズの世界 　　主催：江東区老人福祉センター 　　日時：2008年12月9日10：00〜12：00　 　　場所：江東区深川老人福祉センター　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 水野雅士 6.ホームズと女性たち 　さて次はホームズと女性についてであります。ドイルはやはりプロだけあって、それぞれの作品の冒頭には、読者の関心を引きつけるための工夫を凝らした巧みな導入部が仕掛けられております。これがまたけっこう楽しめまして、これもホームズ物語の魅力の一つであると私は考えております。一昨年の11月に早川書房編集部が編集した「ミステリの名書き出し100選」という本が出版されましたので、やはりみんな同じことを考えているんだとを知って「わが意を得たり」と感じたことであります。私は早速この本を買いまして、ホームズ物語からは何が選ばれているかを確かめてみましたところ、案の定、ホームズものをたくさん翻訳しておられる日暮雅通さんの推薦で、「ストランド・マガジン」における連載短編の記念すべき第一作《ボヘミアの醜聞》の出だしだったのであります。それは次のように始まります。 　シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性(ひと)」（the woman）である。ほかの呼び方をすることはめったにない。ホームズの目から見ると彼女は、ほかの女性全体もくすんでしまうほどの圧倒的存在なのだ。といっても､ その女性、アイリーン・アドラーに対して､恋愛感情に似た気持ちを抱いているわけではない。 　と、まあ、こんな具合に始まるのであります。そこで読者は、いったいこれはどうなっとるんかいなと、つい物語に誘い込まれてしまうのであります。結局この事件でホームズは、聡明な女性アイリーン・アドラーにしてやられることになるのですが、ホームズを出し抜くことができた女性は、六十編の物語の全体を通じて、このアイリーン・アドラーただ一人であります。ワトスンはこの話の最後を次のように締めくくっています。 　ホームズは、それまでよく女性の知恵を嘲笑ったものだったが、最近のわたしはそれを聞くことがなくなった。そして、アイリーン・アドラーの話をするときや、その写真のことにふれるとき、彼は必ず「あの女性(ひと)」という敬称を使うのである。 　ここにはからずも、ホームズの基本的な女性観が出ているように私には思えるのであります。 　さて、このアイリーン・アドラーはオペラ歌手であり、職業の分類としては芸術家のグループに入りますが、ホームズ物語にはじつにさまざまな職業の女性が登場いたします。日本シャーロック・ホームズ・クラブの主宰者である東山あかねさんが調べたところによると、ホームズ物語に登場する女性の数は全部で163人にのぼるそうであります。そこにはヴィクトリア女王を頂点に、上は貴婦人から､下は暗黒街に身を沈めた女性にいたるまで、あらゆる社会階層の女性が含まれていて、彼女たちの生きざまを見ていけば、十九世紀末のヴィクトリア朝という時代の全貌を見渡すことができるほどであります。当時、貴族たちは広大な所有地の地代で暮らしており、貴族階級の女性たちも生活のために働く必要はなく、いやむしろ働かない生活を理想としていて、複数の召使に家事労働を分担させ、みずからは白い手袋をつけて日々を過ごしていました。こういった働かなくてもよい上流階級の女性と、生活のために働かなければならない下層階級の女性との間に挟まれた中産階級の女性の立場は微妙なものだったようです。 　一般的に十九世紀は女性の社会進出が始まった時代とされていますが、それはタイプライターや電話の普及にともなって、タイピストや電話交換手のような大量の仕事が女性に提供され始めた1870年代以降のことでありまして、それ以前の時代は中産階級の女性にとっては、彼女らが誇りを捨てることなく働けるまともな職業といえば、家庭教師がほとんど唯一のものでした。したがって、ホームズの活躍した時代にも、まだそういう流れが残っておりましたので、ホームズを訪ねてくる依頼人には家庭教師の女性が比較的多かったのであります。 　　 　また下宿屋の女主人も女性の職業として一般的でありました。ホームズとワトスンが共同で借りていたベイカー街221Ｂの家主ハドスン夫人などはその代表であります。《マスグレイヴ家の儀式書》という話があるのですが、このなかのワトスンの記述によりますと、ホームズは返事を書かなければならない手紙をマントルピースの木枠の真ん中へジャックナイフで突き刺しておいたり、肘掛け椅子に腰掛けたままでピストルを発射し、反対側の壁に弾丸の跡でヴィクトリア女王の署名を示すＶＲという文字を描いたこともあり、時間の見さかいもなしにいろいろな人物がホームズを訪ねてくるし、事件に取りかかれば食事は不規則になり､部屋は信じられないほど整頓されていないし、妙な時間にヴァイオリンの演奏に夢中になるかと思うと、化学実験に熱中したりという具合で、ロンドンにもこれほどひどい下宿人は滅多にいないと思われるのですが、それにもかかわらず、ハドスン夫人は心からホームズを敬愛していて、彼がどのようにひどい振る舞いをしても、決して口をはさむことはなく、彼に好意をもって接したのであります。 　それというのも、ホームズは女性の扱いがことのほかやさしくて、礼儀正しく騎士のたしなみを忘れなかったのと、下宿代の支払いはいつもきちんとしていて、何年にもわたってホームズが支払った家賃はハドスン夫人の家を買いとることができるほどだったからだといわれています。またホームズにとって彼女は単なる家主ではなく、二十四時間必ずベイカー街にいて、ホームズの探偵事務所を守ってくれる最も身近で信頼できるメンバーでもありました。《空き家の冒険》では、ホームズに協力して、狙撃される危険をおかすような命がけの仕事を手伝っておりまして、このことからも明らかなように、ホームズに信頼され､認められた数少ない女性の一人なのであります。 目次に戻る 7.警察と悪党たち