ホームズ絶筆　訳水野雅士



		訳　水野雅士

(11)

　アイリ－ンと打合せを終えたあと、ぼくは計画実行の段取りにロンドン市中を駆けめぐり、ベイカ－街へ帰りついたのは午後四時に近かった。ぼくは待ちかねていたワトスンにその日のできごとを次のように報告した。
「ぼくは失業中の馬丁に化けて、アイリ－ンの家の裏の小路にある馬車小屋でおしゃべりをしながら、彼女には付き合っているゴドフリ－・ノ－トンという弁護士がいることを聞き出した。ぼくが彼女の家を見張っているとき、たまたまそのノ－トンがアイリ－ンを訪ねてきて、二人はあわてふためいて教会へ駆けつけ結婚式をあげようとしたが、結婚許可証の記載に何か不備でもあったらしく、第三者の立会人がいなければ結婚は法的に無効になってしまうとかで、こともあろうに、二人を尾行して教会の前をうろうろしていたぼくが花婿にとっつかまって拝み倒され、とうとう二人の結婚式の立会人にされてしまったというわけさ。お笑いぐさだよ、まったく」

　ぼくは、あの二人が結婚したとなるとすぐにでも新婚旅行に出るかもしれず、問題の写真を取り戻す件は急ぐ必要があるので、ワトスンに手伝ってくれないかと頼んだ。
「よろこんで手伝うよ。だけど、いったいぼくは何をすればいいんだい？」
　彼がこころよく引き受けてくれたので、ぼくは詳しく計画実行の段取りを説明した。そして昼間手に入れた、鉛管工が使う両端に雷管のついた発煙筒を彼に預け、ぼく自身は急いで牧師に変装した。二人が午後七時前にブライオニ－荘に到着したときには、あたりはもう薄暗くなりかけていた。やがてアイリ－ンがしゃれた小型のランド－（訳注10）に乗って外出から帰ってくると、街角にいた浮浪者のひとりが銅貨にありつこうとして走り寄ってきたが、同じ目的で飛び出してきた別の浮浪者に押しのけられ、激しいけんかになった。周りにいた者も、一方の浮浪者の肩をもつ者がいたかと思うと、もう一方に加勢する者もいて、騒ぎはたちまち大きくなり、馬車を降りた彼女は拳やステッキを振り回す男たちの乱闘に巻き込まれてしまった。
　ぼくはたまたま通りがかった牧師のふりをして、彼女を守るため乱闘の中に割って入ったが、彼女のそばにたどりついた瞬間、叫び声をあげて倒れた。

　そして倒れるときに手のひらに隠しもっていた溶かしたベニをさっと顔にあてた。牧師が地面に倒れ、顔から鮮血を流して動かなくなったのを見て、浮浪者たちはあわてて逃げ出した。すると、それまで遠巻きにけんかを見ていた身なりの良い人たちが寄ってきて、アイリ－ンを助け、倒れているぼくの介抱を始めた。「お気の毒に、けがはひどいのでしょうか？」とアイリ－ンが心配そうにたずねた。
「死んでいますよ」と何人かが答えた。
「いや、まだ息があるぞ」と別の男が叫んだ。
「道に寝かせておくわけにはいきませんね。お宅に運び込むわけにはいきませんか？」
　と誰かが言った。
「いいですとも。居間のほうへ入れてあげて。寝心地のいいソファ－があります。
　さあ、こちらへ！」
　アイリ－ンが先に立って家の中へ案内した。こうしてぼくは数人の男に抱え上げられ、ものものしくブライオニ－荘の中へ運び込まれた。ぼくが居間のソファ－に寝かされるとメイドが入ってきて、居間のランプに灯をともした。ぼくは息苦しいから窓を開けてくれとメイドに頼み、窓が開くと道路に待機していたワトスンに手を上げて合図をした。前もって打ち合わせてあったとおり、彼は部屋の中へ発煙筒を投げ込んで「火事だ！」と大声で叫んだ。それを合図に付近にいた人々がみんな口々に「火事だ！」と叫び始めた。発煙筒の煙は渦を巻いてもうもうと室内にたちこめ、開いた窓から流れ出た。　

　　　　　　　　(つづく）

　
訳注10　幌付きの四輪馬車。二座席で幌は座席の後ろに折り畳めるようになっている。

イラスト　　ストランドマガジン合本2　1891年の「ボヘミアの醜聞」のイラストを利用しました。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　管理人みっちょん