訳　水野雅士

(22)
　このヨ−ロッパ随一の悪党は、ぼくに手を引くよう、さんざんごたくを並べ立てて脅しにかかったが、彼が言えば言うほど、ぼくにとっては、ぼくの仕掛けた包囲網が彼を窮地に追い詰めていることを明白にするだけだった。「きみを確実に破滅させることができるなら、ぼくは世の中のため自分の破滅をも喜んで受け入れるつもりだ」とぼくが最後にとどめを刺すと、「きみの破滅は約束するが、もうひとつのほうはそうはいかんぞ！」とわめいて彼は部屋を出ていってしまった。
　彼の希望した休戦協定は成立せず、物別れとなったのが原因であろうか、ぼくの命を狙おうとする一味の攻撃は急に激しさを増した。その夜ひそかにぼくはワトスン邸を訪ねたのだが、それまでの間にぼくは三回も襲われた。一回目はオックスフォ−ド街で物凄い勢いで走ってくる馬車にあやうく轢かれそうになり、二回目はヴィア街で家の屋根から煉瓦が落ちてきてぼくの足元で粉々に砕け散った。三回目はペル・メル街の兄マイクロフトのところへ寄ってそこからワトスンの家を訪ねる途中、こん棒を持った暴漢に襲われたが、こいつらは殴り倒して警察に引き渡した。　　
　その夜、ぼくはワトスンに、翌朝から一週間ばかり大陸への旅に付き合ってくれないかと頼んだところ、彼はふたつ返事で了解してくれた。ぼくたちはきわめて慎重に準備したつもりだったのだが、驚いたことに、翌朝ヴィクトリア駅のプラットホームにモリアーティ教授が現われて、もう少しでぼくたちの列車に乗り込まれるところだった。
　乗り遅れた教授は、すぐに特別列車を仕立てて追いかけてきたが、ぼくたちはこれをカンタベリ−駅でやり過ごした。パリ行きの荷札をつけた荷物はおとりとしてそのまま残し、ぼくたち自身は陸路でニューヘイヴンに向かい、そこから海路でディエップへ渡った。それからパリを避けてブリュッセルに入った。手荷物だけがパリへ行ってしまったので、ぼくたちはブリュッセルで取りあえず必要な身の回りのものを買い揃え、三日目にストラスブ−ルに着いた。そこからぼくはロンドンのスコットランド・ヤ−ドに電報を打ち、モリア−ティ一味の検挙の状況を問い合わせた。案の定、一味の全員を逮捕したが、首領のモリア−ティだけは取り逃がしたとの返事が返ってきた。すべてはぼくの予想したとおりだった。
　ぼくはワトスンに、これから先は危険な旅になりそうだから、イギリスへ帰るように勧めたが、例によって友情厚いワトスンは「だからこそ、これから助けが要るのだろう」と言って、ぼくの提案を頑として受けつけなかった。結局それからも二人で行動することになり、ぼくたちはストラスブ−ルからスイスのジュネ−ヴに入った。それから約一週間かけて、ロ−ヌ河に沿って渓谷を進み、まだ雪深いゲミ峠を越え、インタ−ラ−ケンを経てマイリンゲンへ向かった。ゲミ峠を越えてダウベン湖のほとりを歩いているとき、突然右手の尾根から大きな岩がガラガラと落ちてきた。ぼくはすぐに尾根に駆け上がって周りを見回したが、人影らしいものをみつけることはできなかった。しかし、この落石が偶然とは考えられなかった。追跡者が身辺に迫ってきた証拠であった。ぼくたちはますます油断なく周りに気を配って進んだ。そしてマイリンゲンに無事到着し「英国旅館」（エングリッシャ−・ホ−フ）に投宿したのは五月三日のことだった。　　　　　　　　　　　　
　　　　　　　　(つづく）



　　　　　　ストランドマガジン　合本6号1893年に載っていたものです
　　　　　　　

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