ホームズ絶筆　訳水野雅士



		訳　水野雅士

　　　　　　(3)

　入ってきたその女性の印象を適切に表現するにはどう言えばよいのか、ぼくはいまもってわからない。三文小説の表現を借りるならば「男が命を賭けてもいい愛らしい女性」とでも言えばよいのだろうか。ゆったりとカ－ルした豊かなブロンドの髪、頭脳の明晰さを覗かせた、きらきらとよく動く大きな褐色の瞳、吸い込まれそうな紅い唇とこぼれる白い歯並、意思の強さを表している眉と鼻筋、そして顎の線、透き通るように白い肌とふくよかな胸、姿勢よくすらりと伸びた背筋、ブラウン系に統一された寸分のすきもないみごとな着こなしなど、全体的にバランスのとれたいかにも魅力的な女性だった。来訪者の表情は堅く、少し緊張していた。それはそれで「なんとかしてあげたい」という男心をそそる美しさだった。ぼくはとっさに彼女が微笑んだらどんなに素晴らしいだろうと思った。ぼくは初対面の観察から推理した結論のいくつかをその場で披露して依頼人を驚かせ、それによって依頼人から一層の信頼をかちとることにしばしば成功したものだが、このときばかりはそんな心の余裕はなかった。

「突然お邪魔しまして申し訳ありません。ホ－ムズさま、助けていただきたいのです」と彼女がしっかりした口調で言った。その声はややハスキ－なコントラルトだった。
「お力になれれば光栄です。必ずあなたを助けてさしあげますから、安心してあなたの心配ごとをお話ください」
　ぼくが椅子をすすめると、彼女はそれに腰掛けて話し始めた。
「有り難うございます。ホ－ムズさまにそう言っていただいただけで、私の不安はたいへん軽くなったような心地がいたします。私の名前はアイリ－ン・アドラ－と申します。生まれはアメリカのニュ－ジャ－ジ－州ですが、オペラ歌手としてあちらこちらを巡業したあと、ワルシャワ帝室オペラのプリマをつとめたのを最後に引退して、いまはロンドンに住んでおります。ときたま舞台のお仕事に声がかかって歌うこともありますが、それ以外はひとりで静かに暮らしております。ところが最近、私は何者かにつけ狙われているような気がするのでございます。最初は気にもとめていなかったのですが、その手口がだんだん大胆になってくるようで、少し気味が悪くなってまいりました。そこで、かねがねホ－ムズさまのご名声を伺っておりましたので、突然でご迷惑とは存じましたが、こうしてご相談に伺ったのでございます」

「迷惑なんてとんでもありません。お困りになっていることがあれば、何なりとご相談く
ださい。ところで、何者かに狙われているような気がしたり、手口がだんだん大胆になっ
てきたというのは、どういうことでしょう。もう少し詳しく話していただけませんか」
「はい、ホ－ムズさま。それというは、私の周りでときどき奇妙なことが起こるのでござ
います。たとえば、私の留守中に誰かが家に忍び込んだのではないかと思われることがこ
の数カ月の間に三回もありました。もちろん鍵はかけて出かけるのですが、帰ってみると
鍵がこわされているわけでもないのに、家のなかの様子がなんとなく変なのです。家具、
書籍、置物など、とくに乱れているというわけではないのですが、出かける前に比べてな
んとなく位置がずれているものがあるような気がしてならないのでございます」
「使用人はいるのですか？」
「はい。メイドが二人と馭者が一人おりますが、いずれも近所からの通いで、私が家を丸
一日以上留守にするときは、たいていひまを出しております。そこで私はふと思いつきま
して、一週間ほど前から家を留守にするときにはかならず、ワ－ドロ－ブやサイドボ－ド
を閉めたあと、扉の見えないところに、私の髪の毛を一本貼りつけて出かけることにした
のでございます」
「すばらしい」ぼくは思わず賛嘆の声をあげた。「それで結果はどうでしたか？」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）

^{イラスト　　ストランドマガジン合本9　1895年より(管理人みっちょん）}