ウェスト・セントラルはバートンとの試合で劣勢に立たされていた。ホームチームのバートンは６アウト１４８点で終止を宣言した。ウェスト・セントラルは７人アウト６１点で、試合時間は３０分しか残されていなかった。
次はフジカワだった。絶望した打者たちはパビリオンに座って、打席に向かう彼を心配そうに見つめた。
彼はバットを構え、奇妙な姿勢で投手に向き合った。
この辣腕投手はためらい、わざと時間と無駄にしていると抗議しそうな様子だった。
「ちょっと待った」カバーポイントが叫んだ。「タイムだ」
「こっちは準備いいぞ」フジカワは言った。
「あんな打者に球を投げられない」投手は審判に言った。「 ウィケットはどこだ？」
「おい、気にするな。すぐにレッグスタンプに当たるさ」と意味ありげに囁いた。
最初の球は好球で、フジカワは足を動かすこともなく、軽く球を投手に向かって打ち返した。次は高くバウンドする球で、彼はライオンのように食いつき、球をスクエアレッグへ引っ張って４点をあげたが、それはランジト・シンジにもできなかったほど巧妙だった。三球目はヨーカーのはずだったが、フジカワは素早く前に出て、さらにレッグに４点をあげた。オーバー最後の球で、彼はウィケットの後ろを狙い、巧みに２点を得点した。
「奴をアウトにできない！」野手が守備位置を入れ替わる中、投手はバートンの主将に向かって言った。
フジカワはバイで打席に戻ってくると、速球投手に対し、ファインレッグの方向に、２点を２回、３点を１回あげた。
次々と倒れるウィケットに浮かれていたバートンのファンは、当惑に静まりかえって見守っていた。主将は守備を変え始めた。２人がスリップから外され、スクエアとレッグ側の深い所に配置された。カバーポイントはファインレッグに専念するよう命じられた。
フジカワはこの動きにも動じなかった。彼は左手を右手の下に滑らせ、ちょうど野手のいなくなったカバーポイントの方向に、左手で球を引っ張った。この打法で３回続けて４点、チーム得点は１００点に達し、投手は２人とも苛立ちを見せていた。どちらもフジカワの足にすら当てられずにいた。ウェスト・セントラルの選手たちは、敗北は免れたと考え、喜びにわき始めた。そして他方の打者が凡打し、捕球されアウトになった。この時点で８人アウト１０５点をあげ、試合時間はあと１０分となった。
野手たちはウィケットのまわりに均等に散らばって機会を待ち構えるよう指示された。フジカワはほとんどの球を軽々と野手の間隙に放ち、得点はいつも２点か４点で打席に立ち続けた。チーム得点は１４０点に跳ね上がっていった時、高い球が手袋に当たり、足下に落ちた。
「ハウズザット？」激高した野手が怒鳴った。虚言癖のある審判が手を上げた。「アウトだって？ どうしてだ？」フジカワは訊いた。
「Ｌｂｗだ」
「Ｌｂｗだって？ 当たったのは手だぞ？」
「あばよ、ミスター」カバーポイントの野手はにやりと笑って言った。「君はアウトになったんだ」
フジカワは思慮深げに鼻をかきながら、打席を降りた。最後の男が全身を震わせながら打席に立ったが、無事に残りのオーバーを持ちこたえた。そこで教会の鐘が６時半を鳴らし、試合は引き分けとなった。
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その夜、フジカワは主将の部屋でパイプをくゆらせながら試合について話し合った。
「フジ、いんちきで君が降ろされなければ、我々が勝っていたはずだ。それにしても、どうしてあんな打ち方を思いついたのか解らないね。速球だと危険じゃないか？」
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「捕手を務めるほど危険じゃないさ」
主将は彼に、アマチュア・クリケットで速球として通用するものも、カウンティーゲームでは中位としか見なされないと語った。
そこでフジは、カウンティーチームで豪速球投手はいるか訊ねた。１人いると答え、地元ウェセックスの事務局長の住所を渡した。 |
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月曜日の夕方、フジカワはカウンティーの練習用のピッチに姿を現し、速球投手と向き合っていた。ももに２回、腹に１回、球をぶつけられ、ウェセックスのプロ選手の球速は、足を動かさずにプレイするには速すぎると思った。しかしこの新しい条件に慣れてくると、天賦の才能が目覚めてきたらしく、まず右打者、そして左打者と、普通の姿勢を変形させたスタイルで、前へ乗り出して球を打ち始めた。
速球投手は持ち前の力強い投球をしたが、彼をアウトにすることはできなかった。
４週間のうち３つの土曜日に、フジカワはウェスト・セントラルにセンチュリーをもたらした。彼の名声はウェセックス中くまなく広がった。
ウェセックス・イブニング・パイオニア紙は、週刊クリケット記事で、委員会はウェスト・セントラル鉄道で働く日本人青年の打撃に注目する価値があると伝えている。彼の打法は、確かに革命的と呼ぶべきもので、実際、ランジト・シンジの打法以上に異色だった。しかしここ数年、勝利の女神に見放されつつあったウェスト・セントラルは、ローカルの試合で平均２００点近くを得点できる打者の申し出を見過ごすことはできなかった。
カウンティーの主将は、チームへの参加を求めるフジカワの申し出を暖かく支持した。しかし委員会は、彼の推薦を大いに重視するものの、これほど変則的な打者をプレイさせられないと考えると伝えた。彼は自分の率いるチームの選手の選考に発言できないなら、（ハノーバーへ行って？）ひどい目にあうだろうと答えた。さらに、出来るだけ早く替わりの主将を見つけるよう伝えた。
ウェセックスでは主将の適任者を見つけるのが難しいため、委員会は抗議に屈して、フジカワを試しにホームグラウンドでの対ヨークシャー戦に出場させることにした。
ヨークシャーが先攻し２０５点をあげた。試合１日目の終わりには、ウェセックスはわずか９９点で全員アウトとなり、フジカワもわずか７点で脚の間を通る球に倒れた。それでもヨークシャーは第２イニングで大量に得点をあげたがっていた。次の試合までにホームに戻らなければならず、誰もが列車の中ではなくベッドの中で眠りたかったからだ。２日で試合に決着をつけ、３日目はゆっくり帰途に着きたいと考えていた。長いシーズンだっただけに、それくらいの贅沢は許されるだろうと思っていた。火曜日の昼食の後、ウェセックスが２９０点の目標点を目指して打席に入った。英国最高の投球陣に対し、望みはないと誰もが考えていた。
今回はフジカワが最初に打席に立った。とても慎重に始め、３０点あげたところでパートナーがエキストラカバーに見事に捕らえられアウトになった。素晴らしい打力をもった若く大柄な主将が打席に入った。
にもかかわらず、小柄なフジカワの方が主将の３倍の勢いで得点を重ねた。やがて彼は慎重さを捨てて、素晴らしい自信をもって、あらゆる方向に打球を飛ばした。グランス、フック、そしてフォワードプッシュ・ストロークと、打球は踊るようにバウンダリーへ向かっていった。どのように守備を変えようが少しも関係ないようだった。フジカワの打球はいつも野手の間隙に放たれた。１時間の打撃でセンチュリーを達成し、チーム得点は１４０点までのびた。
観衆は熱狂的な歓声をあげた。
「こいつは驚いた」熱狂した観客が相棒に叫んだ。「このまま攻勢が続けば、こっちの勝ちだぞ。聞いてるか、トム？」
そして彼は相棒の背中を叩いた。
「やめろ、このバカ野郎、試合を見ろよ。みんな観に集まってきてるぞ」
ニュースは町を駆け抜けた。観客の輪が、途切れがちながら、三重、四重に大きくなっていった。
フジカワは全く疲れた様子もなかった。落ち着き払って、２００点を目指し始めた。主将は手際よくアウトにされたが、その前に２００点を達成。ニュースは電報で伝えられた。ヨークシャーは全く予想だにしなかった敗北に直面していた。
次の打者はペースが遅かったが、フジカワは同じ勢いで得点をあげ続けた。不思議なのは、彼は強く打っているようでもなく、いつもゴロを打ち続けているのに、球はつねに守備の間隙を突いてくることだった。このため野手は広範囲に散らばらなくてはならなかった。フジカワが打席に立つと、「９人の野手をオフサイドにおく」の機略は無意味になった。１オーバーに彼がバウンダリーをあげられないことはほとんどなかった。ウェセックスの観客が歓喜の叫び声をあげられることは長年なかった。
投手は繰り返し変えられたが、得点は伸び続けた。５時前には、小柄な日本人を歓呼する万雷の喝采はさらに高まり、延々と続いた。初出場のカウンティーマッチで２００点をあげるのは未曾有の快挙だった。観客の輪は、興奮して帽子や杖を振りまわした。
そしてフジカワの４点打で試合は決まった。
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選手たちはパビリオンに疾走したが、その努力も無駄だった。あちこちから観客が、笑い、歓声をあげ、叫び、手にできるあらゆるものを宙に放り投げながら、殺到した。男たちは、老いも若きも、この素晴らしい小柄な日本人を近くで見ようと決意していた。やがて彼はヨークシャーの選手たちの肩に乗せられ、パビリオンへ担ぎ込まれた。
警察は群衆を抑えるには無力だった。群衆は演説を求めてどよめきながら建物の前に殺到したが、誰も静かにしないため、フジカワの声が聞こえるチャンスはほとんどなかった。彼はバルコニーに姿を現し、繰り返し帽子をあげた。何度も歓声があがった。これほどいきなり人気の絶頂に駆け上がったクリケット選手はいなかっただろう。誰よりも彼を心から称賛したのはヨークシャーの主将だった。
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翌日、ロンドンの新聞は次のように伝えた。
日出づる国に急速に押し寄せる進歩の波については、最近あちこちで記され、語られている。西側の知識を吸収し、ヨーロッパの発明と啓蒙の恩恵を受けている、日本民族の驚くべき適応力については繰り返し伝えられている。しかし昨日、天才的な日本の紳士が、初出場でノットアウト２０４点と英国の全ての記録を打ち破ってしまうとは、誰が予想し得ただろうか。彼の打法は全く独創的なもので、両面が平らなバットを使っているそうである。これが斬新な新機軸であることは間違いないが、彼は勇壮で独創的な民族の一員であるからそれも当然のことかもしれない。もし彼の躍進が続けば、真似をするものが続々と現れ、現在の投手の困難を倍増させるであろうことは十分予想される。その場合、抗議の嵐と新聞記事があふれるだろう。しかし、確たる知識もないまま、予測をめぐらすのは性急であろう。将来何が起こり得るかを憶測することくらいである。
６月いっぱいフジカワの成功は続き、その勢いが衰えることはなかった。毎週「スポーツマン」誌の平均得点欄の首位に立ち、記録は１５０点から２００点へと上がっていった。彼の似顔絵は煙草の箱に同封され、娯楽場のスクリーンに映し出されるようになり、ドイツ皇帝の肖像に贈られるのと同じくらい熱狂的な称賛を受けた。その月の終わりには、得点は２千点を越え、アウトにされたのは１１回だけだった。
ローズ・クリケット競技場でのオールスター戦、プレイヤーズ対ジェントルメンで、ジェントルメンの代表に選ばれるのは確実となった。カウンティーで最下位にいたウェセックスは、負けは１回だけで、２位につけた。（続く)
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