ホールデーン卿への負債はまったく重大である。もし勝利に絶対必要だった人物をひとりだけ挙げるとすれば、それはホールデーンである。鞘(さや)からすばやく抜き出され、予定の進路をがむしゃらに突進してきたドイツ人が、その胸に突きつけられているのを見て仰天したあの素晴らしい武器を、そっくり集めたのはホールデーンだった。彼には奇跡は起こせなかった。候補者が選挙綱領に掲げたら演壇から追い出されたであろうその時期に徴兵制を導入することはできなかった。防ぐ可能性が残されているときに、まさにその衝突を早めたであろう何らかの劇的な方策を大衆の心に準備させることもできなかった。
　 けれども、我々が持つすべてのものは彼が与えてくれた。フランスを救った八個師団。新陸軍の準備ができるまで良い仕事を続けた国防義勇軍。致命的な弱点になりえた個所を強化した将校養成団。ホールデーンに向けられた叫びほど愚かで恩知らずな非難はこれまでなかった。私がロンドンで最初の戦争講演をしたときにホールデーンは議長を務めてくれた。そのとき、聴衆中の主に女性たちから「裏切り者」という声があがったことを覚えている。私はこの講演の以前も以後もホールデーンに会わなかった。したがって、この件に私的偏見は抱いていない。けれども1915年に『戦史』第一巻を出したとき、当時は不人気だったが今ではもっと十分に受け入れられている見解を最初に唱えたことは私の誇りである。

　★解説：アスキス氏とホールデーン卿

　ドイルが二度目に落選した1906年１月の下院議員選挙では英国自由党が大勝し、政権に返り咲いた。自由党指導者ハーバート･アスキス(1852-1928)は1908年４月に首相となり、1916年12月までその地位にあった。アスキス政権下で陸軍大臣と大法官をつとめたのがリチャード・ホールデーン(1856-1928)である。
　アスキス政権が続く中、1914年８月に第一次世界大戦が勃発した。ドイルはこの部分で、主に２人の政治家と第一次大戦との関わりを回想している。
　戦争はじめの頃に自由党は「通常業務(business as usual)」方針をとり、単独政権を続けた。けれども戦争は長期化し、1916年12月にロイド－ジョージ率いる挙国一致内閣ができあがる。
　自由党単独政権による戦争準備と指導には激しい批判が湧きおこったようだが、ドイルは対立政党から国政へ挑戦していたにもかかわらず、この部分で２人の政治家を擁護している。
　 また、自伝の執筆前である1917年9月号のストランド・マガジンに掲載した『最後の挨拶』ではドイツとの開戦が近い将来ありえると考えた当時の首相、つまりアスキス首相が直々にシャーロック・ホームズにドイツのスパイ組織を混乱させる依頼をさせていることは、戦争準備の不足という理由で退陣を余儀なくされたアスキス前首相への党派を越えたエールと言えるだろう。これらはいかにもドイルらしい態度である。
　ドイルは1916年秋に心霊主義者としてカミングアウトした。政治家との交流の回想は、その直前で終わっている。