(登場人物）

　ジョーゼフ・スミス：渾名は紳士ジョー(ジョーゼフの愛称はジョー）、父は調教師(つまりノン・ジェントルマンの出)。
　チャールズ・ウェルステッド：支店長代理、スコットランドの良家の出、廃絶したある伯爵家との関係を匂わすことがある。
　デュラン：オックスフォード大学の出身者で博学そして良家の出。ダランという表記もあるが、原文はどちらもDullan。
　モービー：オックスフォード大学の出身者で博学そして良家の出。
　スパーキンズ：高教会の牧師の息子。
　私：ウェイルズの名家に血が流れている。
　ニューサム：支店長
　シシィ・ニューサム：支店長の娘

(冒頭）
　ダカット・グルテン・アンド・ダカット銀行、少なくとも大商業都市バーチュスプールにある大繁盛の同銀行支店では、かれはこの渾名で知られていた。

(内容）
　大都会にある銀行の支店に父親が調教師というジョーゼフ・スミスが入行しました。彼の前任者は紳士でおとなしい人間だったのですが、後任者であるジョーゼフ・スミスは、私を含めてのエリート・サークルからはほど遠い人物であることがすぐに判りました。
　理由の一つは言葉です。また、ジョーゼフ・スミスの父親宅に出入りする人物について「本物の紳士」と言っていることなどから、自分たちジェントルマン階級とはちがうのを皮肉って「紳士ジョー」という渾名を付け本人に伝えました。するとジョー自身はとても喜び、天性の「どんなひどいことを言われても、それを好意的に受け取る」という才能を発揮して同僚と付き合いますが、入行してから半年たっても洗練されずに、紳士としては落第点となる服装をするようになりました。その服装とは大きな黒のチェックのアルスター外套で、本人は「これこそ紳士の着るものだ」と言うのです。
　ある日、同僚すべてが支店長の自宅に呼ばれました。ここで紳士ジョーは支店長の娘シシィにかなわぬ恋をしたのです。シシィは同僚のチャールズ・ウェルステッドと幼なじみで、すでに恋仲になっていました。しかし、シシィは若い女性特有のいたずら心で、紳士ジョーの求愛めいたことをすぐに拒絶せずに思わせぶりな態度をとるのですが、ある日とうとうキッパリとはねつけたのです。すると、紳士ジョーは悲しみを胸に秘め何も話をしませんでしたが、髪や服装が乱れ、憂うつさが増していき元気がなくなっていったのです。
　紳士ジョーが失恋をしてから四ヶ月後、ウェルステッドとシシィの結婚が間近にせまったある土曜の夜、私とデュランは紳士ジョーの様子が心配だったの夜中の１２時過ぎまで一緒にいましたが、家に戻る途中で大きな火事が起きているのがわかりました。出火元に近づくと支店長の家の１階が激しく燃えていて、煙が２階以上に上がっているのが見えました。しかし、シシィは自室に取り残されていて、ハシゴを立ててもシシィの部屋の窓まで届かないようです。
　婚約者のウェルステッドも駆けつけていて、皆で家の中に入ろうとしましたがドアを開けた瞬間炎が飛び出して来て私たちを包んだのです。その時です、紳士ジョーだけがドアの中に飛び込み２階のシシィの部屋からシシィを助け出すことができました。そして瀕死の状態になった紳士ジョーはシシィに向かって婚約者が助けれなかったことについて「あいつも俺と同じく助けに行ったんだが、ついてなかっただけさ」と言葉使いは下品ですがウェルステッドを気遣ったのです。
　大やけどをした紳士ジョーが治療のために仕事を休んでいる時に、口数も少なく仕事をしている同僚のひとりが「やっぱりあいつを紳士と呼んでもおかしくないわけだね」というと、もうひとりが「誰にもなれないほど立派な紳士さ」と応えるのでした。
　

(結末）
　(結婚式が行われたら）私が譲った新郎付き添いの役目がやっと私の手に戻るということになるだろう。

(解説・感想）
　ジェントルマン(紳士）という言葉は１６６０年１２月１０日付けのサミュエル・ピープスの日記に、
「今日の午後二人の男が、それぞれ帳簿をもって、人頭税の支払いを求めてやってきた。帳簿をのぞいてみると『サミュエル・ピープス、ジェントルマン、本人１０シリング、召使い２シリング」とかきつけてあった。わたしは早速文句もいわず、それを払った。だがこんなことではすまないのではないかと思う。だから、ずっと前から、そのために１０ポンド用意していたのだ。でも自分から身分を明らかにする必要もないだろう」と載っています。
　この頃の男性の身分は貴族は別にして、中流階級は三種類に区別されていました。これは中世以来の伝統だそうです。上から順に「ナイト、エスクワイア、ジェントルマン」で、具体的に何が違うかと言うと人頭税の額が違います。３月にピープスは海軍省書記官になったことから一階級昇格していたので、本来なら１０ポンドの人頭税を支払うエスクワイアです。しかし帳簿には「サミュエル・ピープス、ジェントルマン」と以前のままの階級が書かれていたので、本来払うべき税金の二十分の一で済んだことを喜んでいるようです。
　これら三種類の身分ですが、１９世紀中頃になるとナイトは国王(女王）から叙勲される栄爵、エスクワイア(esquire)は手紙に「様・殿」という意味で使われるesq.(ホームズ物語では《ボヘミアの醜聞》でホームズ宛の手紙にSherlock Holmes, Esq. と記されています)に、そして「ジェントルマン」は１７世紀のように税金ではっきりと区別できる身分ではなく、国教会聖職者の他にはピープスのような高級官僚、法廷弁護士、内科医、陸海軍士官などのプロフェッショナル集団。ギリシア・ローマ古典文学の教養がある。貴族やジェントリのように生まれと家柄が良い等と言う人たちのことを漠然と指すようになりました。はっきりとした身分としての「ジェントルマン」階級がないのは、英国の社会階層の区分は法律上の身分等で固定されているのではなく、「富の多少」や「職業」「教養」によって階層が決まるからです。また、「自由に下から補填されて」いるので、ジェントルマンに新しく加わろうとしている人に対しては反感もしくは激しい敵意を抱く人もいたようです。
　ただ、「富」「教養」はクリアしても「商業・金融」に携わっている人はジェントルマンとは認められていませんでした。《紳士ジョー》に出てくる私を含む同僚は銀行員です。自分たちはエリート・サークルの一員と自認していますが、銀行関係以外の世間一般とつき合うとジェントルマンとは認められないのです。本人たちもこのことは十分に承知していたと思います。そういう自称エリート・サークルのところに、「富」はあるようですが「調教師」という父を持ち、言葉使いや服装も自分たちが思うジェントルマンとは違うジョーゼフ・スミスが入行したので、揶揄いはじめたのです。ところが、ジョーゼフ・スミスは同僚の揶揄いにもポジティブな受け取り方をするので、私たちも言葉使いは自分たちとは違いますが、誠実で人の良いジョーゼフ・スミスと親しい交流をして、ジョーゼフ・スミスが失恋をした時には慰めています。
　ジェントルマンと言われるための条件を先に述べましたが、これらを持っているのが「正統なジェントルマン」だとしたら、『西国立志編（セルフ・ヘルプ）』の著者サミュエル・スマイルズは『人生と労働』のなかで「真のジェントルマン」について述べていますが、それは「真のジェントルマン」とは「地位、階級を問わない。彼は農夫であってもよいし、貴族でもあってもよい。(中略）富と地位は、ジェントルマンの諸資質とは何ら必然的な関わりを持たない」です。また『西国立志編』には「君子(ジェントルマン）は正直にして義を行なう」と書いていますが、具体的な例としては、「第１３編　品行を論ず、すなわち真正の君子(ジェントルマン）を論ず」の「舟子(船頭）の、(自分の）生命を軽んじ、他人を救いしこと」に、荒れ狂う海で難破している舟から水夫を救う船頭と船頭と行動を共にした６名の行為を紹介しています。この７名たちは何の恩賞もないのに他人の命を救う為に荒れ狂う海に挑んだのです。
　紳士ジョーことジョーゼフ・スミスも愛している女性を救う為に火の海に飛び込み助けます。しかし、女性の婚約者については、「火の勢いが強すぎて火傷を負ったので助けに行けなかった」と、慰めています。これこそ「真のジェントルマン」と言えるでしょう。
　さて、英雄的な行動で賞賛をあびているジョーゼフ・スミスですが、服装については独特の好みがあったようです。それは「大きな黒のチェックのアルスター外套」を着ていたことです。
　我らがシャーロック・ホームズ(Ａ）、そして男装姿の時のアイリーン・アドラー(Ｂ）も「アルスター外套」を着ていますが、挿絵を見るとツィードのような無地なのが判ります。
　この挿絵のようなケープ付きのアルスター外套が「大きな黒のチェック」柄だとしたら、現在ではホームズのトレードマークの一つとなっている「インバネスコート」風になりそうです。習作ともいえる『紳士ジョー』には自分の危険を顧みず女性を助けたホームズを思わせる主人公、後世のファンがイメージするトレードマークが登場する興味深い作品のようです。
　

参考資料
『ピープス氏の秘められた日記――17世紀イギリス紳士の生活』　臼田昭著　岩波文庫
『サミュエル・ピープスの日記 第1巻 1660年』　臼田昭訳　国文社
『西国立志編』サミュエル・スマイルズ著中村正直訳　講談社学術文庫
『ヴィクトリ時代の政治と社会』　村岡健次著
『英国文化の世紀１　新帝国の開化　ジェントルマンと小説』樋口欣三筆