シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第７章　鉄道で駆けつける地方の事件 １.　鉄道をフルに活用したホームズ 　1825年に英国北東部のストックトンとダーリントンの間に世界で初めて蒸気機関車に牽引された鉄道が開通しました。そして５年後の1830年には、産業革命の中核となっていた工業都市マンチェスターと原料・製品の輸出入に適した良港リヴァープールとの間に本格的な公共鉄道が敷かれ、これが予想以上の成功を収めたのであります。これを契機として英国各地には鉄道建設のブームが起こり、鉄道はたちまち英国内の全土に拡大して貨物の､次いで旅客の大量輸送手段として産業革命を完成させるために必要不可欠な役割を担ったのであります。 　鉄道が首都ロンドンに初めて乗り入れたターミナル駅は、バーミンガムから南下してきた路線が1837年に設置したユーストン駅でありましたが、それを皮切りに鉄道各社は競ってロンドンにターミナル駅を設置しはじめ、パディントン駅（1838年）、ロンドン橋駅（1840年）、フェンチャーチ街駅（1841年）、ウォータールー駅（1848年）、キングズ・クロス駅（1853年）、ヴィクトリア駅(1860年)、チャリング・クロス駅（1864年）、ブロード街駅（1865年）、キャノン街駅（1866年）、セント・パンクラス駅（1868年）、リヴァープール街駅（1874年）などが次々と誕生しました。 　それらの駅は、ちょうど東京駅、上野駅、池袋駅､新宿駅、渋谷駅、品川駅といったような各ターミナル駅が山手線で環状につながれているのと同じように、ロンドンの地下鉄環状線で互いに結ばれていて、上野駅が東北地方への玄関口として多くの人々に親しまれてきたように、ロンドンの各ターミナル駅もそれぞれの地方へ向かう玄関口として、立派な駅舎が整備されるようになりました。 　けれども、おもしろいことにロンドンには日本の「東京駅」のように首都の名を冠した「ロンドン駅」という駅はありません。その理由について、松下了平はその著書「シャーロック・ホームズの鉄道学」のなかで、英国の鉄道はすべて私鉄として民間会社の手ではじまったために、一番最初にロンドンに乗り入れたささやかなターミナル駅を「ロンドン駅」と呼ぶのはいささかはばかられたようで、これを「ユーストン駅」と名乗って以来、鉄道各社はそれぞれ自社のターミナル駅を「ロンドン駅」と名乗るのはおこがましいと考えたのかもしれないが、いまとなってはその詳細を知るよしもないと述べています。同書によると、鉄道建設最盛期の1843年には英国内の鉄道会社は70社を越えていたそうですが、やがて整理・統合され、1880年ごろには安定し、英国各地に張りめぐらされた幹線鉄道網もほぼ完成していました。 ロンドンの主なターミナル駅と地下鉄環状線（1890年当時）「シャーロック・ホームズ讃歌」所収『鉄道の躍進』 （執筆　松下了平）より 　ホームズがこの世に登場したのは1887年に発表された《緋色の習作》であることはすでに述べましたが、これは1881年に起こった事件の記録であります。彼が関わった最初の事件《グロリア・スコット号》は、ベアリング-グールド説によれば、まだ彼が学生時代だった1874年の事件ですが、そのときすでにロンドンには上に挙げたすべてのターミナル駅があったわけであります。つまりホームズが活躍した時期には、全国的に整備された鉄道網がロンドンへの乗り入れをほぼ完了していて、鉄道の全盛期だったということができるわけであります。ホームズは首都圏ロンドンで発生した事件の現場へ駆けつけるときには主として馬車を使いましたが、ロンドンの周辺の州をはじめ、国内の各地方へ遠出するときには、人類三千年の歴史上初めて馬の駆ける速さを超えたといわれる文明の利器「鉄道」をフルに利用したのであります。 　ホームズは、1839年にジョージ・ブラッドショウが初めて刊行し、たちまち全国に普及した「ブラッドショウの鉄道時刻表」を愛用し、主な路線のダイヤを熟知していたので、きわめて効率的に鉄道を使いました。その例として、前掲の「シャーロック・ホームズの鉄道学」では《スリー・クォーターの失踪》事件においてホームズが、ケンブリッジへ最も早く着く方法を即座に選択できたこと、および《アビ農園》では犯罪の現場にいるホプキンズ警部から呼び出しの手紙を朝早く受け取ったホームズが「面白い朝になることまちがいなしさ。犯行は昨夜の零時前だ」と断言したので、ワトスンが「どうしてそうだとわかるのかね」と尋ねると「列車の時刻表を調べて時刻を推測するとそうなる」と答えている例が挙げられています。さらに《隠居絵具屋》でホームズは、証拠さがしをするため容疑者を一定の期間自宅から遠ざける手段として鉄道に乗せる手を使っていますし、《三人ガリデブ》では犯人側がこれと同様の手を使うのを見抜いたホームズがそれを逆に利用して、ガリデブの留守中に彼の自宅に現われた犯人を捕まえています。さらに第６章「２.の３)テムズ河右岸（ロンドン南部）」の末尾でも触れた《ブルース・パーティントン設計図》事件では、ホームズが鉄道をきわめて巧みに使った犯罪を首尾よく解決しています。鉄道の普及によって誰でもどこへでも、簡単にしかも速く移動できるようになったおかげで、名探偵ホームズの名が広まるにつれ、英国の各地から彼のところに事件が持ち込まれるようになりました。 「ブラッドショウの鉄道時刻表」 　原寸大の初版本 　ストランド・マガジン 　1904年2月号掲載