ロンドンのテロとホームズの推理（1）

ロンドンのテロとホームズの推理　（1）

by　水野雅士

ほんのお遊びですが、昨年7月に起こったロンドンの同時多発テロ事件にホームズならどのように対応したであろうかという問題を考えてみたいと思います。それにはいろいろな方法がありますが、ここではホームズが物語のなかに数々の名言を残しておりますので、それらを事件と対応させながら見ていくことにします。そのためにまず、事件の概要を整理しておきましょう。
このテロ事件は昨年(2005年）の7月7日（木）と21日（木）の2回にわたって発生し、第１回目は英国北部のスコットランドで主要国首脳会議いわゆるＧ８サミットが開催されている最中で、ロンドンの警備はいつもより手薄になっていました。この日の朝8時50分ごろロンドンの地下鉄のエッジウェア・ロード駅付近とキングズ・クロス駅付近、それにオールドゲート駅付近の３か所で、ほぼ同時に列車内で爆発が起こり､その約１時間後に今度はタヴィストック・スクエアで二階建てバスが爆破され、合計５０人以上の死者と多数の負傷者が出たのであります。これらの爆破は自爆によるものと報道され、四人の実行犯はいずれも爆死したと報道されています。
第２回目は、第１回目のちょうど２週間後、7月21日の昼の12時半から13時半にかけて、地下鉄のシェパーズブッシュ駅とウォレンストリート駅、およびテムズ河の南にあるオーヴァル駅、それにハックニー・ロードを走行中のバスの爆破が計画されましたが、この犯行はお粗末で、いずれも爆発未遂や白煙を上げた程度だったので幸い乗客が避難しただけで、死傷者は出ないで済みました。この２回目の実行犯はいずれも捕らえられ、ローマで逮捕されたフセイン・オスマンは「ロンドンを恐怖に陥れるためだった」と証言しました。つまり厳戒態勢を敷いているロンドンで、地下鉄３か所、バス１か所という第１回目とまったく同じ形のテロを再現してみせることで当局を嘲笑うことが目的だったのです。

　自爆死したとされる第１回目の実行犯の名前や身元は、ロンドン警視庁の機敏な捜査により明らかにされましたので、さすがロンドンの警察だと高い評価を受けましたが、英国はＩＲＡ、すなわちアイルランド共和国軍のテロに悩まされ続けてきたので、これが幸いしたという側面があります。つまり英国はテロ対策として監視カメラの設置が最も進んでいたのであります。監視カメラの数はロンドンだけに限っても民間で42万台、公共のものが8万台、それらのうち6千台が地下鉄構内にに設置されているといわれておりまして、この状況が今回のテロの実行犯を特定するのに大いに役立ったのであります。さてこのような状況を前提として、もしホームズならばこのテロ事件にどのように対応したであろうかということを考えるわけでありますが、ホームズは「緋色の研究」のなかで「犯罪にはたいてい強い類似性がみられるので、もし千の事件の詳細がわかっていれば、千一番目の事件が解けないはずはない」と言っています。したがって、ホームズはこの事件に取り組むにあたって、ＩＲＡによるテロ活動はもちろん、ニューヨークの9・11事件をはじめ､過去に起こった無差別テロ事件の実例を十分研究したであろうことは、ほぼ間違いのないところであります。その結果ホームズは今回のテロの犯行手口には、自爆死をはじめとして、過去における国際テロ組織「アルカイダ」の特徴が見られることから、犯人を探し出すには、イスラム系人種に注目するよう、捜査官にアドバイスしたものと思われます。これがまず、ホームズがとったであろうと推定される行動の第一であります。　　

　さて事件を詳細に分析してみることにします。第１回目のテロは、４件の爆発のうち３件が互いに遠く離れた場所で、ほぼ8時50分に同時に爆発した時間的正確さからみて、一つの仮説として時限爆弾の可能性が浮上したのでありますが、それでは残る１件がなぜ約1時間遅れでバスの爆発となったのかという説明がつかないのであります。無理やり説明をつけようとすればできないこともありませんが、ホームズは「ボヘミアの醜聞」で「データが揃わないのに推理をするのは、大きな間違いだ。事実に合う理論を組み立てないで、知らないうちに、理論にあわせて事実を捻じ曲げてしまいがちだからね」と言っていますし「ぶな屋敷」でも「材料だ！　材料！　材料！　粘土がなくてはレンガを造れない」と言っていますので、ホームズはさらに詳しい捜査の進展を待ったと思われます。
　ところが捜査当局による爆発現場の徹底的な調査にもかかわらず、現場には時限装置や、前年マドリードで発生した列車爆破テロのような携帯電話を使った遠隔起爆装置の痕跡らしきものは針金一本さえ見つからなかったのであります。さらに、バスを爆破した実行犯が動揺して落ち着かぬ様子で荷物をいじっているときに爆発が起きたというバスの乗客の目撃証言が出るにおよんで、捜査当局は時限爆弾という仮説を排除せざるをえなくなりました。時限装置でもなく､遠隔操作でもないとすれば、実行犯がみずから起爆装置のボタンを手で押さないかぎり、爆薬を起爆させることは不可能ですから、当局は、実行犯はいずれも起爆装置を手で押して自爆したと判断し、これをマスコミに発表したのであります。
　今回とくに捜査の進展に大きく寄与したのは、犯人の所持品のなかから、犯人たちがお互いの連絡に使っていた携帯電話が運よく回収できたことでした。さらにこれを助けたのが監視カメラによる記録であります。新聞報道によれば、地下鉄構内の各所に設置された監視カメラの映像2500本を数百人の捜査官にチェックさせたとのことであります。これだけの労力を投入しても、ラッシュアワーの映像をすべてチェックして、そのなかから実行犯らしき人物像を割り出すには時間がかかり、また多くの試行錯誤を伴なうものでありますが、この点についてホームズが当局に助言する余地はあったと考えられます。
　すなわちホームズは、まず爆発現場の位置を地図上にプロットしてみて、何らかの違和感を覚えたに違いありません。と申しますのは、爆発は西の方のエッジウェア・ロード駅付近と東にあるオールドゲート駅付近でそれぞれ１件づつ起こりましたが、真ん中のキングズ・クロス駅付近だけが、なぜ２件かたまって発生したのか、しかもそのうちの１件は地下鉄ではなく、なぜバスの爆破だったのかという疑問を当然持ったと思われるのであります。ホームズは「白面の兵士」という物語のなかで自分の探偵術を「単なる常識を系統だてただけ」と言っておりまして、常識の感覚を大切にしています。彼はおそらく、実行犯たちが考えたもともとの計画は、一人が西へ、一人が東へ､一人が北へ､一人は南へ向かってテロを実行するつもりだったのではないかと考えたことでしょう。なぜならば、ロンドンをパニック状態に陥れようとするつもりならば、ロンドンの東西南北で一斉に爆発を起こすのがもっとも効果的だと考えるのが、正常な発想であり、むしろ常識だと思われるからであります。したがってホームズは「なぜキングズ・クロス駅付近に２件の爆発がかたまってしまい、またそのうちに１件がバスの爆破だったのかという点に注目して捜査を進めるのがいいですよ」とアドバイスしただろうと思われるのであります。これがホームズのとったであろうと思われる行動の第二であります。　　　
　捜査当局が調べてみると案の定、キングズ・クロス駅から南へ向かう地下鉄のピカデリー線は当日運休だったことがわかりました。したがって、南へ向かうはずだったテロ実行犯は、ピカデリー線が運休であることを知り、急遽南へ向かうバスに乗り換えたのではないか、そのためには一旦ユーストン駅の南口にあるバス・ステーションまで行って、そこから出ている南行きのバスに乗らねばならないので、それが爆破時刻の遅れになったのではないかという推測が成り立つのであります。
　ところで、実行犯の一人はキングズ・クロス駅から東へ約４キロのオールドゲート駅近辺で、もう一人は同じくキングズ・クロス駅から西へ約２．５キロのエッジウェア・ロード駅近辺で、さらにほかの二人はキングズ・クロス駅付近で爆破を実行したという状況からみて、ホームズなら立てたであろう仮説のなかには、四人の実行犯がキングズ・クロス駅を出発点として、それぞれの目的地へ向かったという仮説が含まれていたと思われます。その場合、東西に分かれた実行犯が、それぞれ爆破時刻に現場へ到着しているためには、キングズ・クロス駅を何時何分頃に出発しなければならなかったかをホームズならば時刻表で調べたに相違ありません。ロンドンの地下鉄路線図 (「ロンドンのテロとホームズの推理（２）に掲載）を見れば一目瞭然ですが、西方のエッジウェア・ロード駅へはキングズ・クロスからの直通はなく、隣のベイカー・ストリート駅でベイカールー線に乗り換えなければなりません。その乗り換えのための待ち時間を考えると、キングズ・クロス駅からの所要時間はオールドゲート駅までとエッジウェア・ロード駅までの両者にほとんど差がないことがわかります。したがってホームズは、エッジウェア・ロード駅とオールドゲート駅のテロ実行犯はきわめて高い確率で、ほぼ同時にキングズ・クロス駅を出発し、それぞれの爆破現場へ向かったと推理したものと思われます。また残りの二人も理由はどうであれ、キングズ・クロス駅界隈で爆破を実行したのですから、ホームズは当局に対して「監視カメラの映像を調べるなら、キングズ・クロス駅付近に設置されたカメラから探し始められるのが効率的だと思いますよ」とのアドバイスを与えたと思われます。
　これがホームズの第三の助言であります。そして実際にキングズ・クロス駅と、少し北にあるルートン駅の監視カメラには実行犯たち四人の映像が残されていたのであります。ちょっと余談ですが、南へ向かった実行犯は、ピカデリー線が運休だったため、バスに乗り換え、それが爆破時刻の遅延につながった可能性があることは上に述べたとおりですが、北へ向かうはずの実行犯がなぜ指定された爆発の時刻までキングズ・クロス駅付近にウロウロしていて、結局キングズ・クロス駅のすぐ南側を爆破地点に選んだのでしょうか。ホームズは「マスグレーヴ家の儀式」という事件において､「ぼくは自分を相手の立場に置いてみて、相手の知能を推し量り、そういう知能レベルの相手なら、そういう状況におかれた場合どうするだろうか、と想像してみるのだ」とワトスンに語っています。今回のテロ事件は、スコットランドで主要国首脳会議が開かれていてロンドンの警備が比較的手薄になっている時期を狙ったこと、しかも地下鉄という閉塞したチューブのなかで、満員の通勤時間を狙い、爆弾の殺傷効果を最大にしようとしたことなどからみて、プロによる組織的､計画的犯行であることは、ホームズでなくとも容易に想像できるところであります。
　すなわち、このキングズ・クロス駅は世界的な金融と商業の中心地として知られるシティへの北西部の玄関口にあたります。このシティの夜の人口、つまり居住者は数千人程度なのに、昼間の人口は100倍以上の数十万人になるという、東京でいえば千代田区か中央区みたいなところですから、通勤の時間帯には南へ向かう地下鉄は通勤者で非常に混雑し、北行きの列車はガラガラであります。したがって、用意周到な計画性と非人間的冷酷さを持ったプロの目線で見るならば、彼らが殺傷効果を大きくするという原則を優先させ、空いている北行きの列車を避け、あえて混み合っている南行きの列車に乗り込んでキングズ・クロス駅のすぐ南で爆破におよんだという可能性がきわめて大きいのであります
　次にホームズは、当然のことながら、第１回目のテロについては現場の状況を調べ、どんな爆薬が使用されたかに注目したと思われます。ホームズの趣味の一つは化学実験でありまして、ワトスンも「緋色の研究」のなかで、ホームズの化学に関する知識は深遠であると書いているくらいですから、爆薬についてもホームズ自身がある程度の判断は下せたかもしれません。しかし爆薬の量と爆発の威力との関係となるときわめて専門的な知識と経験が必要なため、この点についてはホームズといえども専門家の意見を聞くことにしたかもしれません。いずれにしましても、専門家の鑑定結果によれば今回のテロに使用された爆薬は過酸化アセトンを原料とした手製の高性能爆薬である可能性が高く、かつその高性能爆薬をもってしても、あれだけの被害を与えるためには、各現場ごとにそれぞれ４キロから4．5キログラムの爆薬が必要であっただろうとの見解が示されたのであります。
　ホームズがこの事実をつかんだならば、おそらく彼は「監視カメラをチェックされるなら、リュックサックか、大きめのカバンを持った四人連れを探されるのが早道ですよ」と当局にアドバイスしたと思われます。

　第三の助言に続いて、ホームズのこの第四の助言もまた監視カメラで犯人を探し出すという困難な作業に対するアドバイスだったわけですが、一刻を争う緊急事態のなかで、しかもラッシュアワーの群集のなかから犯人像を割り出すのは、ことほどさように非常に困難な作業だったはずであります。したがって犯人の特定を急ぐ当局にとっては、ホームズのこれらの助言は、捜査官の負担を軽減し、結果を早く出す上で値千金だったと考えられます。英国でマスコミに公開された四人の実行犯たちが揃って写っている写真はキングズ・クロス駅の北方にあるルートン駅に設置されていた監視カメラの映像ですが、実際それには四人ともみんなリュックサックを背負った姿が映し出されていたのです。　


	ロンドンの北方ルートン駅における第一回目のテロ実行犯四人の映像。 2006年6月1日（木）付朝日新聞より

ロンドンのテロとホームズの推理　（2）へ