シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　2. 家庭教師 (ガヴァネス) 　1) メアリ・モースタン 　19世紀も末にいたるまでの英国では、中産階級の女性が誇りを保つことができたほとんど唯一の職業が家庭教師(ガヴァネス)であったことはすでに述べたとおりであります。ホームズ物語には、そういった時代を反映して、六人の女性が家庭教師として登場しますが《四つのサイン》のヒロイン、メアリ・モースタンもその一人であります。彼女はカンバーウェル区（ロンドン南部）にあるセシル・フォレスター夫人の屋敷で住み込みの家庭教師をしていましたが、奇妙な事件に巻き込まれ、ホームズを訪ねてきました。ワトスンの表現によれば、彼女は「小柄で気品のある、ブロンドの若い婦人で、きちんと手袋をはめて、着衣の趣味も申し分なかった。しかし、装飾もなく簡素なところを見ると、生活はさほど豊かではないようだった。洋服は地味なベージュ色で、飾り物もモールも付いていない。服と同じ色合いの小さなターバン型の帽子をかぶっており、その横に付いた白い鳥の羽だけが、彼女の装いを引き立てていた。目鼻立ちが整っているわけでも、とりたてて顔色が美しいというわけでもないが、愛嬌のある、可愛らしい表情をしていて、その青く大きな瞳はまれにみる気高い優しさに満ちていた」のであります。 　ワトスンが彼女に一目惚れし、四日後に事件が解決したときには、もう彼女にプロポーズして彼女の承諾を得ていたこと、ホームズもまた彼女に好感を持っていたが、ワトスンからその話を聞くと「おめでとうとは言わないよ」と言ったこと、ワトスンとメアリとの幸せな結婚生活が長くは続かなかったこと、メアリとの別れが死別か生き別れか、またいつ別れたのかは不明であることなどについては、すでに第２章の「６　ワトスンと女性」の項で述べたとおりであります。しかし、ホームズは彼女が事件の検討に必要と思われる資料を携えて相談にきたので「あなたはまったく、模範的な依頼人ですねえ。いい勘をしていらっしゃる」と言ったり、ワトスンに対しては「ぼくたちがやってきたような仕事にはずいぶん役に立つ人だと思うよ。その方面にたしかに才能がある。父親のいろいろある書類の中で、アグラの地図を保存しておいたことを見てもわかる」と言って彼女のセンスを誉めています。 　このメアリという名については、日本シャーロック・ホームズ・クラブの主宰者小林司・東山あかねが、かねてより主張している一つの仮説があります。その仮説はあちこちで発表されていますが、たとえば「シャーロック・ホームズ大事典」の「『ホームズ物語』（に表われたドイルの母への憎しみ）」の項（執筆　小林司）によれば、ホームズ物語には九人のメアリという名の女性が登場しますが、その全員がいずれも悪人か、不幸な女か、端役のメイドなどであるのは、ドイルの母親の名がメアリだったからだというものであります。ドイルの父親がアルコール症で精神病院に入院している間に、家に下宿させていたブライアン・チャールズ・ウォーラーという十五才年下の下宿人と不倫の関係に陥った母親メアリをドイルは許せず、彼女を罰したいと望んでいたので、その代償行為として、物語のなかでメアリという名の女性をいためつけているのだというわけであります。この仮説に従えば《四つのサイン》のヒロイン、メアリ・モースタンもまた例外ではなく、物語のなかでは、彼女は小さいときに父を失って貧乏暮らしをしたあげくに、巨万の遺産を手に入れ損ない、ワトスンとの幸福な結婚生活も、前述のとおり長くは続かなかった不運な女性となるのであります。