シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　2. 家庭教師 (ガヴァネス) 　3) ヴァイオレット・スミス 　名前は同じヴァイオレットでも、ヴァイオレット・スミスのほうは《孤独な自転車乗り》のヒロインで、サリー州のはずれにあるファーナムの近くのチルターン農場で、男やもめのカラザース氏の10才になる一人娘に音楽を教えている家庭教師でありました。彼女がホームズを訪ねてきたときのことをワトスンは次のように記しています。 　彼女の訪問は、ホームズにとって非常に迷惑だったことを覚えている。というのも、彼は当時有名なタバコ長者、ジョン・ヴィンセント・ハーディンの身に降りかかった奇妙な迫害に関する、非常に難解で複雑な問題に没頭していたからだ。ホームズはなによりも正確さを期して思考に集中する(略)ので、その時に取り組んでいる問題から注意をそらせるものには、何であれ、腹を立てた。それでも、(略)夜遅く一人でベイカー街に訪ねてきて、彼の助けと忠告を熱心に求める、背が高く、優雅で威厳のある、美しい若い女性の話を断るのは難しかっただろう。彼女は話しを聞いてもらおうと固く決心してきているので、今はもう手がふさがっているなどと言ってみても無駄だったし、話を聞くまでは、力ずくででもなければ、部屋から出ていきそうになかった。あきらめたというように、幾分うんざりした微笑を浮かべて、ホームズはその美しい侵入者にいすをすすめると、どんな問題を抱えているのかを話すように言った。 　ヴァイオレット・スミスは、アフリカにいる伯父が死ねば、莫大な遺産が彼女のものになることを知った悪党に結婚を迫られ、悪徳牧師とグルになって大きなオークの木陰で無理やり結婚式を挙げさせられるのですが、その直後、駆けつけたホームズに助け出されます。この話には当時の社会における二つの特徴というか、問題が提起されています。 　その一つは、屋外のオークの木陰で結婚式を挙げたという奇妙な設定であります。これは現代で言えば屋外でレイプされたことにほかならないのですが、ヴィクトリア朝時代はセックスやそれに関わる淫らなことを口にしたり活字にしたりすることはご法度だったので、作者ドイルもそのものずばりは書けなかったことを物語っています。二つ目は、結婚によって妻の財産はすべて夫の所有に帰するという当時の英国における婚姻法の問題であります。この法律を楯にして、女性の所有する、あるいは将来所有が期待される財産を狙ったのが、この強制結婚という犯罪であります。ホームズは結婚式には一足遅れて到着しましたが、悪徳牧師の聖職位はすでに剥奪されていて、結婚式を執り行う資格がなく、この結婚は法律的に成立しないことを調べあげていました。いずれにせよ、強制結婚は法的に認められるものではなく、ヴァイオレットが相続すべき遺産の所有権が悪党に移転することもありませんでした。 無理やり結婚式を挙げさせられる ヴァイオレット・スミス 　ジュビリー線ベイカー街駅ホームの壁画 　撮影　関矢 悦子 　撮影日2004年1月4日 　　 　やがて莫大な財産を相続したヴァイオレット・スミス嬢は愛し合っていたシリル・モートンと結婚し、有名なウェストミンスターの電力会社の社長夫人になったとワトスンは物語の最後に記しています。