シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　2. 家庭教師 (ガヴァネス) 　4) グレース・ダンバー 　家庭教師の四人目は《トール橋》の事件で、アメリカの金鉱王ニール・ギブスンの幼い二人の子どもの教育係として、ニューハンプシャーの広大な屋敷に住み込んでいたグレース・ダンバーであります。彼女がことのほか魅力のある女性だったことから、彼女とギブスン夫妻との間に必然的に生じた不幸な状況のなかで、ギブスン夫人が殺されたのであります。いろいろな証拠から状況は容疑者とされたダンバーに圧倒的に不利であり、このままでは裁判で有罪判決が出てもやむを得ない見通しのなかで、彼女の雇い主であるニール・ギブスンがホームズに出馬を依頼してきました。ギブスンがホームズを訪ねる前に出した依頼の手紙は次のようなものでした。 　　 　神がこれまでお造りになった女性の中でも、最もすばらしい女性が、その命を救うための何の手段も講じられずに、死んでいくことを、わたしはとても正視できません。(略)　とにかくわたしはダンバー嬢が無実であることだけは、堅く信じております。(略)　あの婦人はハエ一匹、殺すことのできないやさしい心の持ち主です。 　ホームズを訪ねてきたギブスンは、手紙の文面から受ける印象とは大違いで、日ごろ経済界の大物として周囲からちやほやされてばかりいるせいか、態度が尊大で傍若無人だったので、ホームズはまともに取り合おうとはしませんでした。しかし、それでは自分が困ることに気がついたギブスンが、少しばかり自制心を取り戻し､反省したので、ホームズも彼の依頼を引き受けることにしたのであります。ワトスンはホームズといっしょに彼女の弁護士に案内されて、独房に入れられているダンバー嬢に会いに行きましたが、ワトスンはそのときの彼女の第一印象をこう述べています。 　彼女のきわだった、彫りが深く、しかも繊細な顔つきを見れば、この女性がたとえ衝動的な行為を犯す人間であったとしても、自分の影響力を常に善いことに向けようとする、天性の性格の気高さが感じられた。彼女は黒みがかった髪で長身の、上品な姿をしていた。存在感のある女性であったが、罠に体をとらわれ、もがいても、どうにもできない、狩りで捕らえられた動物の訴えかけるような、哀れな色が、その黒い瞳に見えた。 独房の中のダンバー嬢 (Ａ・ギルバート画） 《トール橋》部分拡大図 　ホームズの活躍により、ダンバー嬢の容疑は、結局、濡れ衣だったことが証明され、一件落着するのですが、最後にホームズは「さてと、ワトスン、こうしてぼくたちは、一人のすばらしい女性と、さらにもう一人、ひとすじなわではいかない男性の窮地を救ったというわけだ。もしも──まず、ありえない話ではないよ、この二人が将来、手をたずさえていくことになれば、あのニール・ギブスン氏は（略）『悲しみ』という教室で、いくばくかのものを学びとったと経済界は思うだろうね」と感慨深げに言ったのであります。