シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士

第３章 女性群像　3. タイピスト
　2) メアリ・サザランド
　ホームズ物語にはタイピストが二人登場しますが、その一人が《花婿失踪事件》のヒロイン、メアリ・サザランドであります。彼女はベイカー街にホームズを訪ねてきますが、ワトスンは道路の反対側の歩道に立っている彼女を見て「大型の毛皮のえりまきを首に巻き、先がカールした大きな赤い羽根毛のついた、つば広の帽子を、『デヴォンシャー公爵夫人』のように、なまめかしく耳がかくれるように斜めにかぶった、大柄な女性」で「神経質そうにためらってわたしたちの窓を見上げ(略)体を前後にゆすり、落ち着きなく手袋のボタンをもてあそんでいた」と描写しています。これを窓から見下ろしていたホームズが言います。
「以前にも、あんな徴候に出会ったことがある。歩道でためらう時は、いつでも恋愛問題さ。相談したいのだが、デリケートすぎて、わかってもらえないのではないか、と迷っている。(略)あのお嬢さんは、愛情の問題に間違いない。しかし、彼女は腹を立てているというより、むしろ当惑しているか、悲しみに暮れていると考えていいだろうね。いずれにしても、本人がきているわけだから、ぼくたちの疑問もすぐにはっきりするだろう」
　デボンシャー公爵夫人
　　(ゲインズボロー画)
The Harmsworth London Magazine 1899年2月号掲載
　案の定、メアリ・サザランドが相談にきたのは、愛する婚約者のホズマ・エンジェルが結婚式の朝突然、行方不明になったので探し出してほしいという依頼でした。ホームズは例によって彼女をひと目みて、タイピストであることを見破り彼女を驚かせました。彼女の話を聞くと、彼女が父を亡くしたあと母は15才も年下のウィンディバンクという男と再婚しましたが、義理の父となったウィンディバンクは、彼女の婚約者ホズマ・エンジェルが行方不明になったというのに警察に届けようともしないし、あまりにも何もしてくれないので、ついにたまりかねて自分で頼みにきたのだと言ったのであります。そして彼女は、伯父が残してくれた額面2,500ポンドのニュージーランド公債から年4.5パーセントの利益があり年に100ポンドほど手に入るので、婚約者の行方を知るためには、それを全部投げ出してもよいと言うのです。それを聞いてホームズが言いました。
「ということは、あなたには年に100ポンドもの収入がおありで、おまけに働いておられるのですから、きっと、ちょっとしたご旅行や、あらゆるお好きなことをお楽しみになることができますね。未婚の女の方でしたら、年に60ポンドの収入があれば、かなりよい生活ができるはずですからね」。それに対してメアリは「ホームズさま、それよりもっともっと少なくても、暮らせますわ。しかし、家にいます間は、母たちに厄介になりたくないと思っておりますので、一緒に暮らしております間は、そのお金を母たちに使ってもらっていますの。（略）わたくしはタイプライターからの収入だけで充分暮らしていけますわ。1枚6ペンスで、1日に15枚から20枚も打つことができることも、よくございます」と答えています。
　メアリ・サザランド
　(シドニー・パジェット画）
　《花婿失踪事件》より


　この話は当時のタイピストの収入の相場がわかって興味深いものですが、それはさておき、ホームズが調べた結果、この事件の裏には純情なメアリの心を虜(とりこ)にしたまま失踪したホズマ・エンジェルという男の卑劣なたくらみがありました。この犯人は女性の純粋な心をもてあそび、彼が戻ってくるまで彼女がいつまでも待ち続け、他の男と結婚しないように仕組んでいたのであります。その行為をホームズに糾弾されると犯人は「法律に触れるようなことは何もしていない」と開き直ったので、ホームズは「おっしゃるとおり、法律では,あなたをどうすることもできない。しかし、あなたほど罰を受けなければいけない人間は、ほかにいない。(略)　依頼人にここまでは頼まれていないが、ここに手頃な狩猟用のむちがある。それで、わたしが──」と言いながら、さっと2歩ばかり鞭に近づくと、犯人は大あわてで外へ飛び出して行ってしまいました。
　「シャーロック・ホームズ大事典」の《花婿失踪事件》の項（執筆　東山あかね）によれば、《花婿失踪事件》は作者ドイルが自分の家庭の実態を告白するために、無理やり組み立てたものであると見ています。作品のなかで、メアリ・サザランドの母親が１５才も年下のウィンディバンクと再婚したことをメアリが「いい気持ちはいたしませんでした」と話しているのは、現実にドイルの母メアリ・ドイルが家に下宿していた15才年下のウォーラーという男と不倫の関係に陥ったことをドイルがどう感じていたかを告白したものだと解釈しています。そういえば、メアリ・サザランドの母親の再婚相手も、現実にドイルの母親の不倫の相手も、15才年下であるという点で年齢差がぴったり一致しています。