シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　7. 貴族──働かなくてもよい階級のご婦人たち 　 　2)　ヒルダ・トリローニ・ホープ夫人 　ホームズ物語には、ホームズやワトスンをはじめとする登場人物の話のなかに、名前だけ出てくる貴族階級の女性はけっこう多いのですが、そのなかで実際に登場人物として物語の舞台でそれなりの役どころをこなす女性はそれほど多いとはいえません。本章「3の 1）タイプライターについて」の項の冒頭にちらっと出てきた《第二の汚点》のヒロイン、トリローニ・ホープ大臣閣下夫人のヒルダは、その数少ない貴族の女性の一人であります。ヒルダの夫トリローニ・ホープ閣下は、当時英国で一番前途有望な若手の政治家でヨーロッパ省の大臣でしたが、ある日、首相とともにホームズを訪ねてきました。用件はさる外国の君主からきた私的な手紙がトリローニ・ホープ閣下の屋敷の寝室の手文庫から紛失した事実とその状況を説明し、ホームズにその手紙の探索と奪回を依頼することだったのです。その手紙の内容は、さる外国の君主がまったくの独断で英国の植民地政策を厳しく批判したもので、言葉づかいも挑発的できわめて不穏当であり、もしもこれが公表されれば英国の国民感情は最悪となり、一週間のうちに戦争になる可能性もあるという危険なものだったのであります。ホームズは総理大臣に対しては「戦争の準備をなさることです」と厳しく言いましたが、結局彼らの依頼を引き受け、最善の努力を試みる決意をします。 　二人の訪問客が帰ると、ホームズはさっそく調査を開始しますが、突然ヒルダ・トリローニ・ホープ夫人がホームズを訪ねてきます。彼女はベルミンスター公爵の末娘でロンドンで最も美しいとの評判でしたが、そこに現われた彼女の頬は激しい動揺に青ざめ、目は熱に浮かされたような光を放ち、唇は自分の感情を押さえつけようとしているように、固く結ばれ歪んでしまっていました。ワトスンが受けた印象では、それは美しいというよりも、むしろ恐怖に打ちひしがれた姿でした。 「ホームズ様、わたくしがこちらへ伺いましたことを、どうぞ夫にはないしょにお願いいたします」ホームズは冷やかにお辞儀をして、夫人にいすをすすめた。「そのお申し出は、わたしの立場を難しいものにいたします。とにかく、お掛けくださって、ご希望をお話しください。しかし、無条件でのお約束はいたしかねます」　 激しい動揺に青ざめたヒルダ・トリローニ・ホープ夫人 (シドニー・パジェット画） 《第二の汚点 部分拡大》より 　夫人は紛失した手紙の内容と、それが出てこなかった場合、どのように重大な影響があり、夫のトリローニ・ホープにどのような災いが降りかかってくるのかを知りたがりました。調査を依頼された事項についてはすべて守秘義務があるので、ホームズは夫人の質問に対してほとんどまともには答えることはしませんでしたが、それでも彼女はことの重大さを十分に感じとったようで、夫にはないしょにしてほしいと再度念を押して帰って行きました。そしてホームズとワトスンは、彼女が問題の手紙の紛失に深く関わっていることを確信したのであります。ホームズはいつものとおり彼独自の調査により、もともと聡明なヒルダ夫人が涙ぐましい奮闘によって自分の力で問題の手紙を取り戻したことをつきとめました。しかし問題は夫の全面的な信頼関係を失うことなく、つまり夫に知られずに、どうやって手紙が出てきたことを夫に知らせるかということでありました。 　ホームズは大臣の屋敷へ行って夫人に会い、大臣にわからないように手紙を元のところへ戻すための知恵を貸そうとしたのですが、夫人は自分が手紙の紛失に関わったことを一切認めようとはしませんでした。ホームズは説得を重ねますが、いよいよ夫が首相といっしょに昼食をとりに自宅へ帰ってくる時刻が近づくと、ホームズの誠意がやっと彼女に通じ、彼女はホームズの足元に泣き崩れて自分が文書箱から手紙を盗み出したことを認め、そうせざるを得なかった事情を告白しました。 　ホームズは大急ぎで夫人に大臣の文書箱を寝室から持ってこさせ、それを夫人が持っていた合鍵で開け、夫人が取り戻した手紙を文書箱の底のほうへ忍ばせました。間もなくトリローニ・ホープ大臣が戻ってきてホームズが来ているのを知ると、何か進展があったのかと尋ねました。するとホームズが、事態は好転しているが、念のため今一度文書箱をお調べ願いたいと言います。大臣は無駄だと思いながらも、ホームズに言われたとおり文書箱を再度調べてみると「あった！」というわけであります。 　大臣は手紙が出てきたうれしさのためか、前に文書箱を何度も確かめたときになかったものが、いまになってなぜ見つかったのかという疑問をさして深刻に追求することもなく「妻はどこにいるのだろうか？　すべてうまくいったと、知らせてやらねばならない。ヒルダ！ヒルダ！」と叫びながら部屋を出て行ったのであります。 いっしょにいた首相がホームズに言いました。「さて、君、これには何か、仕掛けがあったようだが。どのようにして、手紙は文書箱に戻ったのかな？」これに対してホームズは「わたしたちにも、外交上の秘密があります」と答えました。まさにホームズの面目躍如たるシーンであります。 グラナダTVのホームズシリーズ「第二の汚点」事件の最後でホームズが飛び上がってよろこぶシーンのロケ地(右手がカールトン・テラス・ハウス） 撮影者　関矢 悦子 撮影日　2004年1月6日