シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　7. 貴族──働かなくてもよい階級のご婦人たち 　 　5)　匿名の貴婦人 　もう一人、物語のなかで名前は明かされていませんが、読者に強い印象を与えた、忘れることのできない貴婦人がいます。それは《犯人は二人》の終幕に登場する女性であります。彼女について、ワトスンはこう記しています。 「あなたがわたしの人生を破滅させたように、もうこれ以上あなたにほかの人の人生を破滅させるわけにはいかない。私の心を苦しめたように、これ以上ひとの心を苦しめさせはしない。（略）」彼女は小さな、ピカピカ光る拳銃をとりだすと、彼のシャツの前から二フィート（約60センチ）と離れていないところに銃口を突きつけ、ミルヴァートンの体に向かって、次から次へと弾を打ち込んだ。（略）女は彼をじっと見下ろしていたが、彼の上を向いた顔を靴のかかとで踏みつけた。 　 ミルヴァートンの体に向かって、次から次へと弾を打ち込んだ。 ジュビリー線ベイカー街駅ホームの壁画 撮影日　2004年1月4日 撮影者　関矢 悦子 　ホームズとワトスンはたまたま、もの陰からこの光景を目撃したのですが、翌日になってホームズは、突然彼女が誰であったのかを思い出して「そうだよ、ワトスン！　わかった！」と叫んで、ワトスンを伴い、オックスフォード街をリージェント街のほうへ向かって駆け出したのであります。ワトスンはさらに次のように書いています。 　この左側には、窓に当代の有名人や美人の写真がいっぱい飾ってある店があった。ホームズはそのなかの一枚の写真をじっと見つめていた。彼の視線をたどって、わたしも宮廷用ドレスを着て、高価なダイヤモンドのティアラを頭に飾った、堂々とした貴婦人の写真を見た。（略）そして彼女の夫であった、偉大な貴族で、政治家であった人の称号を読んで、わたしは息が止まった。私はホームズと目を合わせた。そして、そのショー・ウィンドウをから離れながら、ホームズは指を唇にあててみせたのだった。