8、最下層の女性2)　キティ・ウィンター

シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野雅士

第３章女性群像　8. 最下層の女性
　

　2)　キティ・ウィンター

　《高名な依頼人》は、カイバル峠の戦いで名を馳せたド・メルヴィル将軍の一人娘ヴァイオレット・ド・メルヴィルが、ヨーロッパ中で悪名高い女たらしの犯罪者アデルバート・グルーナー男爵に言葉巧みに言い寄られ、すっかり虜(とりこ)になってしまったために、ホームズに彼女の目を覚まさせてほしいと依頼された事件であります。
　うぶな彼女はいまやグルーナー男爵しか目に入らない状態になっており、狡猾な男爵は前もって世間で噂されている自分に関する悪事はすべて彼女に告白した上で、彼女の心を獲得していたので、周囲が何を言っても彼女はそれを中傷としか受け取らず、聞く耳を持たなくなっていたのでした。それまでにいろいろと試みられた方法がいずれもうまくいかず、万策尽きている状況のなかで、ホームズが採った方法は暗黒街に顔のきくシンウェル・ジョンスンを使うことでした。ジョンスンは、グルーナー男爵にさんざんもてあそばれたあげくに捨てられて、暗黒街に身を沈めたキティ・ウィンターをホームズに引き合わせたのです。


	キティ・ウィンター (ハワード・Ｋ・エルコック画）《高名な依頼人　部分拡大図》より

「こっちがミス・キティ・ウィンターでさあ。（略）ホームズさん、あっしは、あんたの伝言をきいて１時間もしないうちに、この女を見つけたんですぜ」とシンウェル・ジョンスンが自慢げに言い、キティ・ウィンターは「あたしを見つけることなんぞ、わけもないさ。いつだって、ロンドンっていう地獄にいるんだからさ。おデブのシンウェルと同じさ。（略）でも、こんちくしょう！　この世に正義があるってんなら、いちばん深い地獄の底にいるはずの人間が、もう一人いるんだよ。そいつが、あんたがいま追っかけてる男ですよ、ホームズさん」とまくしたてました。
　ワトスンの描写を借りるならば、彼女は「青ざめて、思いつめたような顔をしていて、若いが、罪深い生活と悲しみのため、疲れ果てていた。そして、その顔にはひどい皮膚病のような跡を残した恐ろしい歳月が読み取れた」のであります。　
「お力を貸していただけるようですね、ウィンターさん」とホームズがほほ笑んで言いました。こういう場合におけるホームズの女性の扱い方のうまさは抜群であります。たとえ暗黒街に身を沈めた女性であっても、あたかもレディに対するかのように接したのであります。そのように遇された女性の気分は悪かろうはずがありません。キティはホームズに全面的に協力しました。
「あいつをいるべきところに放りこむことができるってんなら、あたしは何だってやりますよ。(略)　こんなあたしにしたのは、あのアデルバート・グルーナー野郎なんだ。あいつをギャフンという目に遭わせることができるんだったら！」

　ホームズはヴァイオレットの説得を試みましたがうまくいきません。ヴァイオレットがホームズの説得にはまったく耳を貸さないのを見て、いっしょに連れて行ったキティが言いました。
「あたしは、ついこの間まであいつの愛人だったんだよ。あいつが誘惑し、利用し、破滅させ、ごみの山に捨てた、大勢の愛人の一人なんだ。あんたもそういう目に遭わされるよ」
　しかし、ヴァイオレットはびくともしませんでした。説得は再び失敗に終わりましたが、ホームズはキティから貴重な情報を仕入れていました。それは彼女がまだグルーナー男爵の愛人だったときに、たまたま男爵が彼女に見せた茶色の革の本について、彼女がホームズにこんなことを語ったのであります。
「あいつが持っている一冊の本ですよ──鍵がついてて、茶色の革の本でね、表にゃあいつの紋章が金色で付いていましたっけ。あの夜は、ちょっと酔っぱらってたんだろうね。さもなきゃ、あたしにあれを見せたりはしなかっただろうよ。（略）あの男は女を収集しているんですよ。蛾や蝶を集める人間がいるように、あいつは女を収集して、そのコレクションを自慢するんですよ。スナップ写真、名前、それからくわしい説明、女に関するあらゆることが。汚らわしい本ですよ──どんな卑しい生まれの人間だって、とても書くことができない類の本ですよ。ところが、そういう本をアデルバート・グルーナーは持っているんです。『わたしが破滅させた女たち』その気があれば、本の表にそう書いたでしょうね。（略）あいつは几帳面で、整理整頓好きの人間ですから、たぶん今だって、奥の書斎の、古い机の整理棚の中にあるんじゃあないですか」
　これは決定打になるとホームズは考えました。それを読めば、自尊心のある女性だったら我慢できないはずのものでした。そこでホームズはワトスンの協力を得て、グルーナー男爵の屋敷へ乗り込み、件(くだん)の本、つまりグルーナー男爵の愛欲日記を手に入れることに成功します。おそらくこの話は、セックスを連想させるような表現はタブーとされた当時の厳しい社会的風潮のなかにあっては、活字にできるぎりぎりの線であったに違いありません。また、ホームズについてきたキティ・ウィンターは、どさくさに紛れて隠し持っていた硫酸を、恨みを込めて男爵の顔に浴びせたのであります。男爵はもだえ苦しみ、居合わせたワトスンが応急手当をしてやりましたが、ハンサムが自慢だった彼の容貌は台無しになってしまいました。恐ろしいのは女の恨みであります。