シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　8. 最下層の女性 　 　3)　かつて知っていた一番魅力的な女性 　《四つのサイン》でホームズを訪ねてきた依頼人のメアリ・モースタンに一目惚れしたワトスンが「なんと魅力的な女性(ひと)だろう！」と言うと、ホームズが「そうかね？　ぼくは気がつかなかったよ」と言ってとぼける場面があります。「君は本当に機械・・・そう、計算機のような男だね。ときどき、ひどく非人間的になることがある」と言ってワトスンが声を荒げると、ホームズは、優しく微笑みながら言いました。 「一番大切なのは、相手の個人的な特徴によって、判断を狂わされないことだよ。依頼人はぼくにとっては、単なる問題のなかの一単位、一要素にすぎない。感情の質は、明晰な推理をできなくする。ぼくがかつて知っていた一番魅力的な女性は、保険金ほしさに三人のいたいけな子どもを毒殺して、絞首刑になった女だ」と。　 　それはまるで「ぼくだって、女性に対する審美眼はあるし、好き嫌いだってあるさ」と言わんばかりの、ちょっと聞き捨てならないせりふであります。ホームズにとってこの「一番魅力的だった女性」のモデルが誰だったのかという点については「シャーロック・ホームズ大事典」の『コットン、メアリ・アン』の項（執筆　北脇佳寿美）に取り上げられています。この実在のメアリ・アン・コットンという女性は、1832年に炭鉱夫の家に生まれた元看護婦で、彼女の周囲の人間、つまり夫や子ども、親戚あるいは友人などが20年間に21人死んでいて、そのうちの14人〜15人は確実に彼女が手を下したといわれています。残念ながら、彼女の体型やルックスなどの記述はありませんが、彼女が絞首刑に処せられた後「ニューカッスル・ジャーナル」紙には「子どもたちに毒を盛っている最中でも、そのような素振りはなく、どちらかというといたって優しい女性に見えた」という彼女に関する論評が載ったとのことであります。