第３回７-９章の構成について　エディンバラ版『コナン・ドイル自伝』について

「エディンバラ版『コナン・ドイル自伝』を読む」

	by 熊谷彰	公開日２０２４年５月6日

第３回７-９章の構成について

1.７-９章の概要

シリーズ3回目は第7-9章を取りあげる。ドイルはエディンバラ大学卒業から１年後の1882年７月に英国南部の港町ポーツマスのサウスシー地区で医院を開業した。８年半ほど暮らし続けて、1890年12月にサウスシーを去る。『ドイル自伝』第7-9章はこの時期の出来事を回想している。年齢的には23才から31才まで。第7-9章のタイトルは次のとおりである。 ※( )内は新潮文庫の章題
	Ch.7	My Start at Southsea(サウスシーでの発足)
	Ch.8	My First Literary Success(最初の文学的成功)
	Ch.9	Pulling Up the Anchor(いかりを揚げる)

2.結婚と作家業

　ドイルはポーツマスへ来てから３年後の1885年８月にルイーズ・ホーキンズと結婚した。この結婚が第７-９章を大きくわけていて、第７章＝結婚まで、第8,9章＝結婚以後と区別できる。しかし、内容をみると第７章は医業、第８章は作家業、第９章は心霊研究＋その他の出来事を主に扱っている。そのために、第８章では記述が冒頭でポーツマス到着直後に戻り、それからポーツマス時代８年半の作家活動が語られる。さらに、その部分もすべての記述が時間の流れに沿っているわけではない。だから、第８章の読み方には注意が必要である。この落とし穴にはまったのが『ＮＨＫテキスト/100分de名著・シャーロック・ホームズスペシャル』(2023)で、著者はドイルの小説がはじめて有名雑誌『コーンヒル』に載った時期を1885年８月の結婚後とした(p.12)。だが、実際は結婚約１年半前の1884年１月号に「Ｊ・ハバクック・ジェフスンの供述」が掲載されている。

3.心霊主義(１)

　だが、今回の連載でとくに注目したいのは『ドイル自伝』各版での心霊主義の扱いである。
エディンバラ版『ドイル自伝』は原稿までさかのぼり、原稿、『ストランド』誌(1923-4)、単行本(1924)、単行本改訂版(1930)という４テキスト間の異同を精査した。その結果、心霊主義に関連する記述がどのように変化したかが明らかになった。
手短にまとめると、ドイルは1917年10月にロンドン心霊主義者同盟が開いた会合で死後も生命は存続すると公言し、心霊主義の本格的伝道へ乗り出した。『ドイル自伝』は伝道活動の只中で書かれている。
　したがって、『自伝』原稿には20才前後でキリスト教の正統信仰を離れてから50代後半に心霊主義の伝道活動へ乗り出すまで、人生の各時期に取り組んだ心霊主義の研究や実験を回想する流れがあった。
　ところが、そのうち2,30代に行なった研究や実験の回想は『ストランド』誌掲載時にすべてカットされた。これらの削除箇所はいずれも単行本で復活する。ドイルと『ストランド』誌とのつきあいは自伝発表時には30年を越えていた。だから、心霊主義部分の大幅カットという『ストランド』誌の要望をドイルは受け入れて、その後ホダー＆ストートン社から単行本を出したとき、自分の意志を貫いて原稿の記述へ戻したと考えてよいだろう。
　単行本の章数でいえば第3,9,12,15章の心霊主義部分、つまりエディンバラ大学、ポーツマス、サウス・ノーウッド、ハインドヘッドの各時代に行なった心霊主義研究や実験の回想が『ストランド』誌ではカットされている。

4.心霊主義(２)

　日本語版の心霊主義の扱いに目を向けると、新潮文庫『わが思い出と冒険』(1965)は単行本前半の心霊主義の回想のうち、第3章の相当部分と第9章の全部分をカットした(第12,15章は存置)。このうち、影響が大きいのは第9章のカットである。
　ドイルは1885年の結婚後、興味を共有するポーツマスの人々と最初にテレパシーの実験をした。続いて交霊会を開き、その成果を心霊主義雑誌『光』1887年7月2日号に投稿する。さらに神智学に興味を向けるが、結局この神秘主義からは離れた。
　これらの実験や研究の回想が第9章のだいたい前半を占めていて、ドイルが20代後半に心霊主義の核心部分を受け入れたことがわかる。しかし、これらの回想は『新潮文庫』で全面的にカットされた。そのために、ドイルは第一次世界大戦で多くの身内を失ったので心霊主義に走ったという俗説が日本で流通し続けたのではないか。
　新潮文庫『わが思い出と冒険』第9章の心霊主義カットを最初に是正したのは冨山太佳夫氏である。冨山氏は『シャーロック・ホームズの世紀末』(1993)第21章「ドイル、再登場」で心霊主義者ドイルの歩みをひととおり論じた。その中で、『自伝』第9章前半のポーツマス時代の心霊主義の実験や研究の部分を訳出、紹介した。
　さらに、『世紀末』出版から22年後の2015年には笹野史隆氏が『コナン・ドイル小説全集』第37巻で『ドイル自伝』第9章を全訳した。こちらには、くわしい注釈がついている。どちらも、日本のドイル研究への貴重な貢献である。

5.その他の注目点

　それでは、最後に第７-９章の他の注目点を記したい。ポーツマスで暮らした8年半の間、ドイルは医者の看板を掲げ続けた。だが、開業医生活についての『自伝』の回想は第7章末尾、つまりルイーズ・ホーキンズと結婚した1885年8月で終わっている。ドイルはいつまで医業を続けるつもりだったのか。この問題は、さらなる考察が必要だと思われる。
　結婚後は文学の面が開けて他を押しのけることになったと第7章末尾に書いたドイルは、続く第8章前半で『緋色の研究』誕生の背景を回想した。先行作品としてのガボリオとポー、モデルとしてのジョセフ・ベル教授、科学という着目点、主人公とパートナーの名前選びなど、『緋色』制作プロセスをひととおり振り返っている。ドイルはその後のホームズ物語に関しては、こういう背景を『自伝』に記していない。その意味で、第8章前半のこの部分は非常に貴重な回想である。
　ドイルは第9章後半に、突然、ある事件がおきて、わたしを決まりきった生活から揺さぶり出し、人生と計画に絶対的な変化をもたらしたと書いている。細菌学者コッホが結核の治療薬を見つけたというニュースを1890年秋に聞き、ベルリンへ取材に行ったときに、出会った皮膚科医からロンドンでの眼科開業を勧められたというのが「ある事件」。このアドバイスに従い、「ポーツマスの決まりきった生活」を1890年の末に打ち切ったというのである。しかし、偶然の出会いや出来事が私を変えたというエピソードは『ドイル自伝』に数回登場する。これらのエピソードはどこまで信じられるのか。こちらも、なお一層の考察が必要な問題である。

　　　　　　　　「エディンバラ版『コナン・ドイル自伝』を読む」目次に戻る　