シャーロッキアンの果てしなき冒険　 by 水野 雅士 第３章 女性群像　5. 家政婦 　ホームズ物語には、たくさんの家政婦やメイドが出てきますが、家政婦についていえば、名前が 挙げられた者だけでも十人におよびます。そのなかで、ホームズの捜査活動に何らかの影響を与えた 家政婦を何人か取り上げてみましょう。 　1) レキシントン夫人　2)　マーカー夫人　3)　マーサ 1) レキシントン夫人 　まずは《ノーウッドの建築士》に出てくる引退した建築士オールデイカー氏の家政婦レキシントン夫人であります。彼女は、オールデイカー氏が失踪後、現場保存のため警備に当たっていた巡査に、薄暗い玄関の奥の壁に血のついた指の跡を見つけたことを知らせました。それはオールデイカー氏殺害の容疑者として警察に拘留されているマクファーレンという若い建築士の指紋だったのです。しかし、これが犯人の誤算でありました。警察は前日の捜査でその血痕を見落としていたと考えたのですが、ホームズはそこに血痕などなかったことを覚えていたのです。それにマクファーレンは昨夜警察に留置されていたので、ホームズはその血痕は誰か別人によってつけられたものと考えました。ホームズは、その血痕の発見を知らせたのが家政婦のレキシントン夫人だったことから、彼女が犯人とグルであることを確信するにいたったのであります。 2)　マーカー夫人 《金縁の鼻めがね》は、ヨックスリ・オールド・プレイスに住むコーラムという病弱な老教授の秘書のウィロビー・スミスという青年が殺される事件ですが、犯人がどこをどう逃げたのか痕跡がつかめないという状況のなかで、ホームズはコーラム教授の家政婦マーカー夫人との会話から解決のヒントをつかむのであります。そのときの様子を、ワトスンは次のように書き止めています。 　ホームズは、その気になれば、女性に取り入るのがたいへんうまく、すぐに相手との信頼関係を築けるのだった。(略)　彼は家政婦の心を捉え、長年の知り合いのように彼女と話していた。 「教授はほとんど食べないんじゃないかな」 「そう、むらがございますね。それはたしかです」 「賭けてもいいが、今朝教授は朝食を食べなかったろうし、あんなにタバコを吸った後じゃ、昼食も食べないだろうね」 「いえいえ、あいにくそれははずれです。今朝は大変よく召し上がりましたよ。あれほどよく召し上がったことはありませんし、昼食には大盛りのカツレツをご注文です」 　 　　マーカー夫人 《金縁の鼻めがね 部分拡大》より 3)　マーサ 　もう一人重要な家政婦を忘れてはならない。それは上記の「ハドスン夫人」の項でも触れたマーサであります。ホームズは彼女を《最後の挨拶》で英国に潜入していたドイツのスパイの親玉フォン・ボルクの家に前もって家政婦として送り込んでおいたのであります。ホームズはワトスンにマーサを引き合わせて、ワトスンとマーサに次のように語りかけています。 「マーサは今回、役目を実に見事に果たしてくれたのだ。(略)　ああ、マーサ。万事うまくいったと聞けば、おまえも喜んでくれるだろうね。(略)　マーサがここにいてくれれば、ぼくも安心だった。今夜も、ぼくらは、あなたが合図してくれるまでしばらく待っていたのだよ。(略)　あなたの部屋のランプが消えたのを見て、やっと道がひらけたと思ったのだよ。(略)　家を出る準備はすっかり整っているのだろうね」 「はい、整っていますとも。彼は今日、手紙を七通出しています。いつものとおり、宛て名はすべて控えておきました。今日届いた手紙は九通でした。こちらも住所を控えてあります」 「上出来だ、マーサ。それは明日見せてもらおう。じゃあ、おやすみ」 　このマーサがハドスン夫人と同一人物であるとする説もあることはすでに述べましたが、まったく別人だったと考えるほうが無理がないように思われます。