「ササッサ谷からライヘンバッハの滝までの小説」(ネタバレあり) by関矢悦子
初出誌：ストランド誌1891年11月号
初邦訳収録本：中央新聞 1899(明治32)年8月30日〜9月2日
初邦訳題:「暗殺党の船長」(翻案） 総題は「不思議の探偵」 南陽外史訳
参考邦訳：《オレンジの種五つ》日暮雅通訳『シャーロック・ホームズの冒険』光文社文庫
１８９１年３月、ウィーンからロンドンに戻ったコナン・ドイルは家族とモンタギュー・プレイス２３の下宿におちつくと、眼科医院を開く準備をしながら執筆もしていたようで、著作権代理人Ａ・Ｐ・ワットのビジネスレターによると、ワットは３月３１日付けで《ボヘミアの醜聞》を受け取っています。これをピアソンの伝記と比べると
| ワットの手紙によると《ボヘミアの醜聞》を３月３１日に受け取っている。 | |
| ピアソンの伝記には《ボヘミアの醜聞》を４月３日に送る。 |
となります。
この日付の違いはピアソンが参照したコナン・ドイルのポケット・ダイアリーの記述を現在では確認出来ないので「違っている理由は判らない」としか言えません。しかし、ビジネスレターであるワットの手紙の日付のほうが信頼できると思います。
そして、アッパー・ウィンポール２番地に開業した眼科医院で患者を待ちながら執筆を続け
| ４月１０日付けで２作目の《花婿の正体》 | |
| ４月２０日付けで３作目の《赤毛組合》 |
を、ワットに送っていますが、この順番と日付はワットの手紙とピアソンの伝記も同じです。
次にピアソンの伝記によると、４作目の《ボスコム谷の謎》を４月２７日にワットへ送っています。しかし、ワットがドイル宛に書いた４月２８日付けの手紙には『ストランド』誌から《ボヘミアの醜聞》の原稿料３６ポンドを受けとったことは書いてありますが、《ボスコム谷の謎》を受け取った日付への言及はありません。また、マクドナルド論文と熊谷彰の閲覧報告によると『レター・ブック２５巻』には《ボスコム谷の謎》の原稿受け取りを確認する手紙はないそうです。しかし、５月１３日付けのワットからコナン・ドイル宛の手紙に「昨日付のお手紙とシャーロック・ホームズ・シリーズ第５作の原稿とを一緒に受け取りました」と書かれているので、間違いなく４作目の 《ボスコム谷の謎》は５作目の《オレンジの種五つ》より前にワットに届いているのが判ります。
ここからが大きな問題点となる５作目の作品《オレンジの種五つ》をコナン・ドイルが何日に送ったのかという日付に関しての論証です。
(ピアソン伝記とワットの手紙の比較は「註１の表Ｂ」を参照）
ピアソンの伝記には５月４日にインフルエンザにかかったので、《オレンジの種五つ》を５月１８日にワットに送ったと書いてあります。
この頃のロンドンはインフルエンザが流行していて「近代オカルティズムの母」とも言われているH・P・ブラヴァッキー夫人が４月末にインフルエンザに罹患して４０度以上の熱が続き５月８日に亡くなっています。熱が出て食事がとれないH・P・ブラヴァッキー夫人に医師が処方したのは「二時間毎に茶さじ一杯のブランデー」だけの時代です。ブラヴァッキー夫人は６０歳なので体力がなかった可能性もありますが、前年にはコナン・ドイルの姉アネットが家庭教師をしていたポルトガルにおいてインフルエンザで亡くなっていますが、３４歳という若さでした。
コナン・ドイルはインフルエンザに罹患したときのことを８月の「ある朝、(下宿から医院に向かっている途中）氷のような寒気がし、引き返した」がこのあと一週間は危篤状態だった、と自伝で回想しています。
自伝とピアソンの伝記に従うと、《ボスコム谷の謎》を４月２７日に送ったあと、《オレンジの種五つ》を執筆していたが、５月４日にインフルエンザに罹患、一週間ほど危篤状態になり１１日ころには危機を脱したが、体調が戻った１８日に完成した《オレンジの種五つ》の原稿を送った、という説明で何も問題はありませんでした。自伝ではこのインフルエンザに罹患したのは８月と書いていますが、《最後の事件》において１８９１年５月４日にホームズをライヘンバッハの滝に落とした日付と、生き方を変えるほどの経験だったインフルエンザに罹患したのが同じ１８９１年５月４日であることをコナン・ドイルが隠そうとした、と推測することも可能でした。つまり、自分が医業を捨て執筆だけで生きることを決心をした日---危篤状態にまで悪化したインフルエンザに罹患した日---を、重要な作品の執筆にさまたげとなるシャーロック・ホームズを葬った日に選んだ、ということです。
ところが、１９９７年に発表されたマクドナルドの論文によってコナン・ドイルがワットに《オレンジの種五つ》を送ったのが５月１２日で、原稿を受け取ったワットは翌１３日付で原稿を受領したこと、そして「ただちに『ストランド・マガジン』への送付」をすること、また「病気を見舞う」ことなどを記してコナン・ドイルに手紙を送っていたのが判ったのです。
つまり１８９１年５月の初旬、 《オレンジの種五つ》の原稿を送る前にコナン・ドイルが病気になったのは間違いない(インフルエンザとは書かれていません）のはワットからの手紙で判りますが、問題はなぜピアソンが伝記で「５月１８日」に《オレンジの種五つ》を送ったと書いたのか、という疑問が出て来たのです。
今までは、コナン・ドイルのインフルエンザ罹患によりコナン・ドイル本人も家族も混乱していたのでピアソンが見たコナン・ドイルのポケット・ダイアリーに記入ミスがあったと思っていました。
しかし、２０１８年３月１日と２日に熊谷彰がニューヨーク公共図書館バーグ・コレクション所蔵のＡ・Ｐ・ワットが顧客の作家に出していたビジネスレターの写しを１００２ページにまとめた (1ページに複数の手紙のケースあり)"Letter Book Vol.XXV"の閲覧によって、ワットの手紙を全文読むことが出来た結果、新たな事実が分かったのです。
その事実を検証するために"Letter Book Vol.XXV"に残されているワットの手紙から、５月１２日《オレンジの種五つ》送付からのコナン・ドイルの体調的なことに言及しているのを抜き出して表Ａにしてみると
| 表Ａ | 月日 | 差出人 | |
| ５月１２日 | ドイル | ワットは１２日付けの手紙で《オレンジの種五つ》を受け取っている。 | |
| ５月１３日 |
ワット |
「シャーロック・ホームズ・シリーズ第５作の原稿」を受け取ったこと、「体の具合が非常に悪かったと聞き、お気の毒です。でも、もうすっかり良くなられたと思います」というお見舞いの文言と、「明朝ウィンポール・ストリートへ貴殿を訪問させていただきたく思います。お手紙の差出住所ですから、この場所でお会いできると考えています」 |
|
| ５月１５日 | ドイル | 電報をワット宛てにだした。 | |
| 同上 |
ワット |
貴殿の本日付の電報を受け取りました。 インフルエンザから回復されつつあると思います。来週火曜日(１９日）の12時半頃にモンタギュー・ストリートへ(反対のお言葉がなければ)訪問させていただければと思います。 |
|
| ５月２３日 | ワット | インフルエンザの悪影響から、もう抜け出されたことと思います | |
| ６月１１日 | ワット | インフルエンザとその影響からは、もうすっかり立ち直られたことと思います。 |
となりました。この表でみると《オレンジの種五つ》の原稿を送ったときの手紙には「体の具合が非常に悪かった」と書かれていますが、原稿を送って来たことで、ワットはコナン・ドイルの体調は良くなっていると判断して、住所として書かれているウィンポール・ストリートの医院の方に行く、という手紙を送っています。しかし、１５日の手紙では「貴殿の本日付の電報を受け取りました。インフルエンザから回復されつつあると思います」と書いて、面談の日を四日後の「１９日」に変更することを知らせていますが、これは別件の原稿の依頼についての打ち合わせです。
《オレンジの種五つ》の原稿を送った時に書かれていた
「体の具合が非常に悪かった」のはインフルエンザだったのでしょう。
さて、ワットのビジネスレターに書かれている情報だけで「コナン・ドイル日付順執筆リスト」を作ると
| ３月３１日 | ３１日付けの手紙で《ボヘミアの醜聞》をワットは受け取っている。 | |
| ４月１０日 | １０日付けの手紙で《花婿の正体》をワットは受け取り、１１日付けで返事を書いている。 | |
| ４月２０日 | ２０日付けの手紙で《赤毛組合》をワットは受け取り、２０日付けで返事を書いている。 | |
| 不明 | 《ボスコム谷の謎》の送付日は不明だが《オレンジの種五つ》の前に送っている。(２８日付けのワットの手紙には言及なし） | |
| ５月１２日 | １２日付けの手紙で《オレンジの種五つ》をワットは受けとり、１３日付けで返事を書いている。 | |
| ５月１９日 |
１９日付けの手紙で《外交問題》をワットは受け取り、２０日付けで返事を書いている。 妹コニーのタイプ原稿。(掲載は『挿絵入りロンドン・ニュース』１８９２年夏号) |
となります。
この「日付順執筆リスト」からはピアソンの伝記に書かれている、「《オレンジの種五つ》を５月１８日にワットに送った」という記述は間違っているのが判ります。実際にはコナン・ドイルからの５月１２日付けの手紙で《オレンジの種五つ》をワットが受け取り、返事を書いた日付は５月１３日なので、ピアソンが伝記に記しているインフルエンザに罹患した日が「５月４日」というのは執筆期間を考えると、あり得ないことになります。また、自伝のインフルエンザの思い出として「罹患したのは８月で一週間危篤状態だった」という記述も違うことになり、「コナン・ドイル日付順執筆リスト」と表Ａを合わせて罹患した日を推定すると《オレンジの種五つ》を書き終えワットに送る寸前の可能性が強くなったので、コナン・ドイルがインフルエンザに罹患したのは《オレンジの種五つ》の原稿を送る少し前、５月１０日(頃）という結論になりました。
つまり、ドイル家の文書を実際に見ることが遺族から許された数少ない「伝記 (１９４３年刊行)」の執筆者ヘスキス・ピアソンはシャーロック・ホームズがライヘンバッハの滝に落ちたという物語上の日付「１８９１年５月４日」を特別な日と位置づけるために、コナン・ドイルが生き方を変えるほどのインフルエンザに罹患した日を「１８９１年５月４日」と創作した可能性がでてきたのです。
本当に「１８９１年５月４日」がコナン・ドイルにとって重要な日であったのか、ドイル家の記録に記述違いがあったのか、それとも創作であったのかを知るためにも、ポケットダイアリーなどのドイル家文書の公開が待たれます。
参考資料
★Peter D. Mcdonald
'The Adventures of the Literary Agent:Conan Doyle, A.P. Watt, Holmes andThe Strand in 1891'
初出は１９９７年 "Victorian Periodical Review"誌
1998年のアーサー・コナン・ドイル協会会誌『ＡＣＤ』(Vol.8)」に再掲載邦訳は
「著作権代理人の冒険：1891年のコナン・ドイル、Ａ・Ｐ・ワット、ホームズと『ストランド』誌」
ピーター・Ｄ・マクドナルド著 熊谷 彰訳、個人研究用
Peter D. Mcdonaldの著書
１９９７年刊行の"British literary culture and publishing practice
1880-1914"(『イギリス著作文化と出版実践1880-1914』)
Cambridge University Press.
の「第３章 軽い読み物と文学の尊厳：ジョージ・ニューンズ社とアーサー・コナン・ドイルの生成」の
第４節冒頭部では「1890年代は真面目な文学的野心を持つ作家が大衆的な探偵小説を書くのに
良い時期ではなかった。ひとつの理由は純粋文学派のポピュリズムへの軽蔑に立ち向かわねば
ならなかったからである(熊谷彰訳）」 と指摘しています。
★当サイトに掲載している
Ａ・Ｐ・ワット『レター・ブック』第２５巻閲覧報告 ３：ホームズ関連の手紙
ニューヨーク公共図書館バーグ・コレクション所蔵Ａ・Ｐ・ワットの ”Letter Book Vol.XXV”より
コナン・ドイルと関係者あてのビジネスレター1891年3月〜6月 翻訳と解説:熊谷彰
(註１）
ドイル家文書を実際に見ることができたヘスキス・ピアソンの伝記『コナン・ドイル』とワットからドイル宛に送ったビジネスレターの日付を
比べると違いがあります。また、これまでのインフルエンザにかかった日にちの根拠はピアソンの伝記の記述だけです。
| 表Ｂ １８９１年 | ピアソンの伝記 | ワットからドイル宛の手紙の日付を参照 |
| 《ボヘミアの醜聞》の原稿 | ４月３日にワットに送った | ワットは３月３１日に受け取っている |
| 《花婿の正体》の原稿 | ４月１０日書き上げる | ワットは４月１１日に昨日受領した、と返事を書いている |
| 《赤毛組合》の原稿 | ４月２０日送る | ワットは４月２０日に同日付けの手紙で受領したと返事を書いている |
| 《ボスコム谷の謎》の原稿 | ４月２７日送った | ４月２８日付けでワットは『ストランド』誌から『ボヘミアの醜聞』の原稿料３６ポンド受けとった、という手紙を送っているが、《ボスコム谷の謎》原稿を受け取った日付への言及はない。 |
| インフルエンザにかかったのは | ５月４日 | はっきりとした日にちは不明 |
| 《オレンジの種五つ》の原稿 | ５月１８日にワットに送った | ワットは５月１２日付けの手紙で「シャーロック・ホームズ・シリーズ第５作の原稿」を受け取っている |
| A Question of Diplomacyの原稿 邦題は《外交問題》 |
記述なし | ミス・ドイルから５月１９日付けの手紙でタイプ原稿を５月２０日に受け取っている。 |
(註３)
A Question of Diplomacy
雑誌掲載は The Illustrated London News (挿絵入りロンドン・ニュース）の１８９２年夏号
邦題には《外務大臣の痛風》、《外交上の一問題》などがある。
収録単行本のRound the Red Lamp(『赤いランプをめぐって』)については、
「《生理学者の妻》の内容紹介と解説・感想」で紹介しています。
参考文献：
Ｈ・マーフェット著『H・P・ブラヴァッキー夫人』 田中恵美子訳 竜王文庫
ヘスキス・ピアソン著『コナン・ドイル』植村昌夫訳 平凡社
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