「ササッサ谷からライヘンバッハの滝までの小説」(ネタバレあり) by関矢悦子・熊谷彰
《へまなスタート》解説２：１８８２年６月と７月におけるポーツマスの郊外サウスシーでの開業とバッドからの仕返し
(公開日 ２０１９年４月２６日)
《へまなスタート》解説１：１８８２年６月プリマスにおいて「旧友バッドの医院」から解雇された本当の理由
本項目は「解説１」の「１８８２年６月プリマスにおいて『旧友バッドの医院』から解雇された本当の理由」の続きです。自伝ではサウスシーでの最初の数ヶ月に起きた出来事を時系列を無視して述べている箇所があるので、『書簡集』を元にして「１８８２年６月から７月にかけての約四週間」におけるコナン・ドイルの生活の再構築をしています。該当箇所は「第６章 最初の実務体験」の小項目「わたしのサウスシーでの冒険」「安く家具を備え付ける」そして「第７章 サウスシーでのスタート」の小項目「奇妙な生活」と「弟の到着」、そして「解説１」では小項目「悪賢い陰謀」の真実を記しましたが、ここでは小項目「陰謀炸裂」に記されているジョージ・バッドのコナン・ドイルへの仕返しの方法と目的、この攻撃を作家としての力で乗り越えようとしている手紙の紹介をしています。また、コナン・ドイルには手紙に日付を書かない癖があるので、日付の断定は内容によって決めているのもあります。
それと、以下の説明文は下記の「１８８２年６月２４日ポーツマス到着から７月１日の転居そして３週目までの年表」と、この年表を元にして作製した「図版２ １８８２年６月と７月のカレンダー」を元にして記しています。
１８９１年６月２５日、医師と作家の一人二役を止め作家として生きる道を選んだコナン・ドイルはロンドン郊外サウス・ノーウッドのテニスン・ロード１２の借家に妻と娘そして妹のコニーと移り住みましたが、９年前の１８８２年６月２４日には身の回りの品が入った小さなトランク１つと１０ポンドほどの現金を持ち開業医としての成功を夢見てポーツマス港の桟橋に上陸しています。ポーツマスは軍事基地や海軍基地がある英仏海峡沿岸にある都市ですが、コナン・ドイルが診療所を開業したサウスシーはポーツマスの東にある海辺のリゾート地(註１）として有名でした。
さて、コナン・ドイル自身は自伝『回想と冒険』(註２)にポーツマスに海路で向かったのは「１８８２年７月頃about July of 1882」そして「ポーツマスに着いた最初の夜に女性をなぐっていた(あるいはむしろ蹴っていた）乱暴者と喧嘩をした」と書いています。
しかし、母宛への手紙には、「戴冠式の夜、男が女房を蹴っていたので大通りでよろず修繕屋をぶちのめました」と書いていますが、この「戴冠式の夜」とは６月２８日なので６月中にポーツマスに到着していたことの証拠となります。現在ではポーツマス在住のコナン・ドイル研究家スタヴァートの調査により、到着日は「１８８２年６月２４日」(註３)と判っています。
次にサウスシーでの「診療所兼住宅」であった エルム・グローブ(街）ブッシュ・ヴィラ１番地に住み出した日です。自伝によると「ポーツマスに着くと１週間下宿した。１週間かけて複数の空き屋を選び出し、最終的に年間家賃４０ポンドでブッシュ・ヴィラに決めた」、そして母宛の手紙には家賃の金額について「１ヶ月には１週間足りないので家賃からは１５シリング６ペンス引いてもらいました」と書いています。また、不動産屋が敷金の要求をしないで、初見の客であるコナン・ドイルに有利な契約をしてくれたのは、保証人として(コナン・ドイルが勝手に)名前をだしたバス勲爵士である伯父ヘンリー・ドイル(註４)の名声のおかげでした。
当時の家賃の支払は３ヶ月ごと、つまり年４回の後払い方法でした。直近の四半期支払日は６月２４日(洗礼者ヨハネの祝日）です。コナン・ドイルはポーツマスに着いたのはスタヴァートの調査で「６月２４日」、入居はスタヴァートの調査と、家賃から１週間分を差し引いてもらったという手紙の記述から「７月１日」は確定しています。そして、これからの話に重要なキーワードは９月２９日(ミカエル祭の日）にコナン・ドイルは実際に家賃を支払わないと、ブリストルでのジョージ・バッドの失敗のように借金をそのままにして夜逃げをすることになります。そうすると、保証人として無断で名前を借りた伯父ヘンリー・ドイルに連絡がいき親戚中から敗残者というレッテルを張られてしまうのです。どうしても１０ポンド、正確に言えば１５シリング６ペンス引いてもらっているので９ポンド５シリング６ペンスを９月２９日まで用意する必要がありました。開業して３週目の《へまなスタート》の主人公も家計費として５シリングと数ペンスしか持っていませんが、机の中には家賃の支払分として１０ポンドを持っていて、これに「手をつけたら、おしまいだ。餓死したほうがましだ」と思っています。
さて、スタヴァートの調査による入居日を裏づける証拠とは、地元紙の『ポーツマス・イブニング・ニュース』７月１日(土曜日）号に載った以下の文です。
「Dr Doyle begs to notify that he has removed to 1, Bush Villas(註５), Elm Grove, next the Bush Hotel.」
(ドイル医師はブッシュ・ホテルの隣、エルム・グローヴ、ブッシュ・ヴィラズ１に転入したことをお知らせしたく思います。)
| 同じ文章で、３日と４日の新聞にも載っているので、この移転形式の告知について当時は医者のエチケットとして開業広告は出せなかったので、こういう移転という文面で開業を告知したのではとスタヴァートは推測しています。 ドイルが住み始めたブッシュ・ヴィラですが、「図版１」で判るようにすぐ近くに賑やかなショッピング街のキングズ・ロードがあったので、コナン・ドイルも医院前の道路エルム・グローヴを歩く歩行者が多かったことは手紙に記しています。 「診療所兼住宅」としてブッシュ・ヴィラ１番地に住むことにしたコナン・ドイルが最初にしたことは、診察室用の部屋に置く中古の机と椅子そしてベッドを買うことでしたが、実家から毛布が届くまでアルスター外套にくるまって寝ていたことも手紙での報告で判ります。 ここまでで判ったのは、新聞の告知掲載日から７月１日にブッシュ・ヴィラ１番地にコナン・ドイル一人で住み出したことです。また、９歳の弟イネスがエディンバラからサウスシーに到着したことを母親に知らせる手紙は出だしをイネスが書いているので"1882.11of July"(図版３を参照）と日付が記されていることにより(註６)「７月１０日」が到着日だと判ります。 自伝の記述だと弟のイネスが到着したのは「何週間も経ってから」となっていますが、実際は１０日後なので、自伝に書かれている出来事の時系列には物語的に面白く書こうとしたのか、単なる勘違いなのか判らないところです。 |
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以上の弟イネスが到着したことを知らせ手紙を含めてポーツマスから出した母宛の手紙９通(手紙Ａ〜ＧとＩ・J）を、内容から判る出来事等を元にして日付順に並べ、箇条書きで内容を書いたものと、イネスの到着が二日前つまり、７月１２日に出したシャーロット・ドラモンド宛(手紙H）にはポーツマスでの最初の１週間の出来事が書かれているので「１８８２年ポーツマス到着から弟イネスが到着するまでの年表」に載せました。「図版２」の「１８８２年６月と７月のカレンダーの英字」は下記の年表の「カレンダー用」の英字と符合してます。 １８８２年７月１日 競売で購入した中古というより太古と言ってもいい家具(ベッドと診察室用の机と椅子）をブッシュ・ヴィラ１番地の三階建て地下室有りの家に運び込み、ドイルはトランク一つを持って引っ越しをしました。６日に母親からの荷物が届くまでアルスター外套にくるまって寝たことは先にも記しましたが、食事の方はコーンドビーフ缶を食べる生活をしています。 |
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しかし、この安心感も長くは続かず１０日(月曜日）の朝に書いた手紙には「(バッドから)今朝、すばらしい手紙が届きました。---これは受け取った手紙を破いておくという用心を怠ったぼくのうかつさえの報いです。」というものです。バッドは自分のことを糾弾しているドイル母の手紙を偶然読んだので、約束していた仕送りを停止する、と通告してきたことによりドイルは奈落の底に落ちてしまったのです。 |
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(註２）自伝『回想と冒険』：ここでも、延原謙訳 の『わが思い出と冒険』ではなく笹野史隆訳の『回想と冒険』を参考資料としています。
(註３)ポーツマスへの到着日は「１８８２年６月２４日」 ：手紙Bには「戴冠式の夜、男が女房を蹴っていたので大通りでよろず修繕屋をぶちのめました」、そして『自伝』には「ポーツマスに着いた夜に喧嘩をした」と書かれているので、ポーツマス到着日は「戴冠式の日」の６月２８日の可能性がありますが、"A Study in Southsea"の記述よると、当時の広告からアイルランドのダブリンからロンドン行きの便は週２回運行されていました。しかし、ドイルが乗船したプリマスと下船したポーツマスの二つの港に立ち寄る便は土曜日だけだったので、コナン・ドイルがポーツマスに到着したのは「１８８２年６月２４日」 となります。
(註４)バス勲爵士である伯父ヘンリー・ドイル：『自伝』には「バス勲爵士である伯父」とだけ書かれていますが、ヘスキス・ピアソン著、植村昌夫訳『コナン・ドイル』p72によると、アイルランド国立美術館館長ヘンリー・ドイルです。
(註5)Bush Villas：Bush Villasは二軒長屋の建物で、コナン・ドイルが借りたのはBush Villas１ですが、ドイルは単数のBush Villaと自伝には表記しています。
(註６)母親に知らせる手紙には珍しいことに日付が入っていたので：この手紙はコナン・ドイルと弟イネスの二人が書いていますが、「日付」は弟が書いています。
