母親そしてホーア医師の反対を押し切ってコナン・ドイルはプリマスのバッドの医院で働きだしましたが、数週間後にバッドから解雇されてしまったのです。この理由はこれまでの伝記には自伝的小説《スターク・マンローからの手紙》と自伝『回想と冒険』の記述から、ドイル母が出した手紙に「バッドが先に開業して破産したブリストルでの借金を払ってないことを非難する」意味の「破産した詐欺師」で「破廉恥なジョージ・バッド」と書かれていたのを盗み読みをして知った結果怒ったからだ、又はドイルが来てから「患者が減った」というような言いがかりをつけて、というものでした。
　しかし、自伝や自伝的小説に書かれていることを参照せずに、ここでは、『書簡集』のなかでプリマスからの手紙(日付はなし、母宛２通、ホーア医師宛１通）とポーツマスのサウスシーから母宛に出した日付なしの手紙１通の計４通の手紙をもとにして、バッドがドイルを突然解雇した理由を探ってみようと思います。

　①最初はホーア医師宛の手紙です。出だしの文章からプリマスから出した最初の報告のようです。
　出だしは「バッドの話が大風呂敷だと思っていた私たちの予想は、大はずれでした。彼の収入は三千ポンドとはいかないでしょうが、それでもそれに近い数字だと思います」です。他にも幾つかの興味深いことが書かれていますが、ここでの一番注目する記述はバッドから直接聞いた話です。それは
「バッドはどういうわけかDirectoryに名前を出すのが嫌いで、記載を拒んでいますが、(医院が大繁盛をしている）彼をおもしろく思わない(地元の）医者たちはそれにそれにすぐに気がつき、あの男はアメリカの薬草医だという報告書を発表しました」と言うものです。
　つまり地元の医師たちは医師資格に疑問を持ったようです。この地元医師の攻撃に対してバッドは「診療所で医師免許を見せる用意がある」と新聞に掲載した結果、バッド医院は益々繁栄したそうです。
(ホーア医師宛の手紙はニューヨーク公立図書館ヘンリー・Ｗ・アンド・アルバート・Ａ・バーグ英米文学コレクションが所蔵)

　②次に母宛の手紙の出しは「ぼくがどうしているか心配されていることと思います」、続いてバッド医院でのコナン・ドイルが稼いだ金額について、最初の週８シリング、二週目２０シリング、三週目２５シリングと記しているところから、母宛の手紙もバッド医院で働きだして４週目頃に初めて書いたようです。この手紙の注目点は「もしバッドに何かあれば(Which God forbid)、大繁盛の診療所がぼくに転がり込んでくることになります」と書いていることです。括弧のなかの”Which God forbid”　とは慣用句で「考えてはいけないことですが」「そんなことは断じてない」の意味です。

　③３通目の母宛への出だしは「お手紙ありがとうございました。でもどうしてあんなに陰気で悲しい手紙をくれるのでしょう」と書かれ、現実的ではない母親のアドバイスへの反論のあとに、「思い切ってポーツマスで開業しようと思う」、「旅費はバッドが出してくれる、そして週に１ポンド以上稼げるようになるまでバッドが週１ポンド支援するという話を受け入れる」という記述から、母親は息子がバッド医院を解雇されたのを知っていてあれこれアドバイスを書いたのでしょう。②の手紙の後に往復書簡があったようです。そして「至急５ポンドを送金して欲しい」という仕送りの要請が書かれています。

　④さて、ここで問題になるのは②の返信として母親が書いた手紙にジョージ・バッドを怒らせるような何かが書かれていたことです。この母親の手紙をバッドが読んだ事はサウスシーで家を借りたあとに届いたバッドからの手紙(註４）の報告を母親に出していますが、冒頭は「今朝、すばらしい手紙が届きました-----これは受け取った手紙を破いておくという用心を怒ったぼくのうかつさへの報いです。お母さんも知っているとおり、ぼくは友人を裏切ったことなどありません。けれども彼が支援を打ち切るというならしかたありません」で判ります。
　母親が書いたバッドの悪口を問題にするなら「裏切ったことなどない」とは言わない思うので、バッドの逆鱗に触れたのは何だったかを推測してみます。
　ヒントは①ホーア医師宛に書かれている、地元医師たちが怪しんだ原因の「バッドはどういうわけかDirectoryに名前を出すのが嫌いで、記載を拒んでいます」です。このDirectoryとは、Post Office Directory(郵便住所録）かMedical Directory (医師年鑑）の可能性がありますが、地元医師たちが問題にしていること、医師であるコナン・ドイルがホーア医師にDirectoryと略して書いているので、『医師年鑑(Medical Directory )』の可能性が強いと思うので、ここではバッドが掲載を拒んだのは『医師年鑑』として説明を続けます。
　この『医師年鑑』(註５）とは「国の医師免許登録に載っている医師全員の経歴を記載した刊行物」ですが、医師の資格を持つと自動的に載るものではなく、登録は有料となっているので、本人からの申し込みが必要だったようです。記載内容は「名前、出身校、資格、経歴、医学雑誌への投稿」等以外に現住所も載せるようになっています。
　当時のコナン・ドイルにはバッドが『医師年鑑』への記載を拒んでいる理由は判っていませんが、私が推測してみるとバッドはブリストルでの借金をそのままにして夜逃げ状態なのですから、現住所が判ってしまう『医師年鑑』への記載はしたくても出来ないのが判ります。
　次に、②の手紙に記されている「もしバッドに何かあれば(Which God forbid)、大繁盛の診療所がぼくに転がり込んでくることになります」はコナン・ドイルから母宛への手紙に書かれているのでバッドには知りようがないはずですが、バッドが盗み読みした母親からの返信に、この文章を引用していた可能性はあると思います。たとえ母親の文面は息子への叱責でもバッドにとっては、「そんなことは断じてない(Which God forbid)」ではなく、「大繁盛の診療所」欲しさにコナン・ドイルが「バッドに何かあれば」を人為的に作り出すためにブリストルにいる債権者に連絡をするのでは、と疑心暗鬼に陥ったような気がします。
　コナン・ドイルにはバッドを「裏切るつもり」は全くなかったし、母宛への手紙の文面は大繁盛している友人の医院で働いている高揚感でつい書いてしまったのでしょう。でも、この一行を記したことは大失敗だったとコナン・ドイルは長年思っていたと思います。
　 確かにジョージ・バッド夫妻はコナン・ドイル宛の手紙を盗み読みをしたのでしょうが、コナン・ドイルの「悪意のない軽口」が産み出したのが小項目の「悪賢い陰謀」の真実なのです。そして次に「陰謀炸裂」になりますが、この小項目の説明は「解説：２」に記す予定です。
　思いもよらない大失敗を乗り越えてポーツマスのサウスシーで８年間ほど開業医として働き、そして気持の上では収入の補助として執筆活動を続けていましたが、医業を止めて作家としての生きる道を選んだときに、もし、あの時にジョージ・バッドとの共同経営が破綻しなければ、「ジョージ・バッド&コナン・ドイル医院」の共同経営者としてプリマスで大繁栄していた人生の可能性もあったことを、《へまなスタート》の主人公のウィルキンスン医師に自分がなし得なかった成功を与えたのです。
　偶然かもしれませんが、１８９１年３月の執筆当時に考えていたホームズシリーズ６編の最終編《唇のねじれた男》(註６)と《へまなスタート》は同時期に執筆され１８９１年１２月に別々の雑誌に掲載されました。
　そして、シャーロック・ホームズも《へまなスタート》の主人公のウィルキンスン医師も依頼人(患者)の話を聞くときは「両手の指先を合わせ」、ホームズは依頼人の話を聞く前に依頼人を観察して細かな事実を指摘します。ウィルキンスン医師も患者を驚かせる指摘をする恩師の教授のように患者を観察して診断をくだそうとしますが(註７）、最初の患者と思った男性はガスの集金人だった、というオチで閉めくっています。ホームズシリーズと同時期に書かれた《へまなスタート》は、ホームズ物語の最初のパロディ的要素を含んだ作品に思えるのは２１世紀の読者である私の考えすぎでしょうか。
　 文学の道で生きる決意をしたコナン・ドイルは、ホームズ物語《唇のねじれた男》では「医師と作家の一人二役ではなく、作家だけの一人一役として生きることを選んだ」ことを小説の中で大げさな言葉で言えば宣言しています。
　そして《へまなスタート》が収録されている短編集『赤いランプをめぐって』の副題は「医師生活の事実談と空想談」ですが、《へまなスタート》はコナン・ドイルが医師として経験した「事実談」と、現実世界では「成功した開業医の共同経営者として迎えられること」が挫折したことを「小説の世界で実現させた」空想談の両方が上手く融合して、少ない文字数で医師生活の最後の年となった１８９２年を飾った作品になっています。

(註１）自伝『回想と冒険』：コナン・ドイルの自伝”Memories and Adventures”の邦訳は笹野史隆訳『回想と冒険』を利用させて頂いています。理由は延原謙訳のコナン・ドイル自伝『わが思い出と冒険』(新潮文庫)には訳者による恣意的なカットがあるからです。それと、自伝と自伝的小説とコナン・ドイルが言っている《スターク・マンローからの手紙》では、ジョージ・バッドではなく「ジェームズ・カリングワース」という仮名です。

(註２)５月中頃から６月２4日：自伝によるとポーツマスに上陸したのは７月と書いていますが、2011年に邦訳が出た『コナン・ドイル書簡集』収録の手紙によると「６月２８日」にはポーツマスにいることが確かなので、バッドの医院にいた４週間＋日数から、バーミンガムからプリスマに行ったのは５月、そしてポーツマスに着いたのが６月２４日なのは「解説：２」で説明予定です。

(註３)１８８１年９月ブリストルでの開業に失敗：この時にコナン・ドイルはバッドに呼ばれてブリストルに行っていますが、お金のないコナン・ドイルにはどうすることも出来ませんでした。しかし、この時の経験を面白おかしく《クラッグの開業》と題して小説を書いています。

(註４）サウスシーで家を借りたあとに届いたバッドからの手紙：詳しく記すと、「７月８日から弟のイネスが到着した７月１８日前」に届いたバッドからの手紙です。

(註５）『医師年鑑』：参考にした資料は日暮雅通訳『シャーロック・ホームズ大百科事典』河出書房新社と日暮雅通訳『バスカヴィル家の犬』光文社文庫の「註３」によります。

(註６)ホームズシリーズ６編の最終編《唇のねじれた男》：コナン・ドイルは当初ホームズシリーズは６編と著作権代理人ワットに通知していました。その証拠は１８９１年４月１４日付けのワットから、アメリカ新聞連合編集者Ｓ・Ｓ・マクルーア宛の売り込み書簡には「ドイル博士によるシャーロック・ホームズ氏という人物の経験を物語る探偵もの６作シリーズ」と記されているからです。この時点でコナン・ドイルがワットに送ったホームズシリーズは《ボヘミアの醜聞》と《花婿の正体》の２作品でした。詳しくは「Ａ・Ｐ・ワット『レター・ブック』第２５巻閲覧報告-２　　３．ホームズ関連の手紙」を参照してください。

(註７)『チェンバーズ・ジャーナル』誌１８９５年１月号に掲載された《ウイルキー大尉の思い出話---もと犯罪人の物語》にも、語り手の医師が「外見だけで人の職種をあてる」という魔術の名人のエジンバラ大学教授の下で勉強したことがあり、医師自身も外見だけで職種当ては得意と自負している、という《へまなスタート》と同じ趣向の作品があります。しかし《ウイルキー大尉の思い出話》を執筆して雑誌社に送ったのは処女作《ササッサ谷の怪》と同じく１８７９年とされています。雑誌社は１６年近く眠らせていたことになります。コナン・ドイルは昔の作品は紛失したと思っていたので、似たような医師を登場させたのでしょう。

参考資料：
『コナン・ドイル書簡』スタシャワー／レレンバーク／フォーリー編　日暮雅通訳　　東洋書林
コナン・ドイル小説全集笹野史隆訳『赤いランプをめぐって　上』収録のコナン・ドイル自伝『回想と冒険』
「第６章　最初の実務経験」　「第７章　サウスシーでのスタート」
コナン・ドイル著『スターク・マンローからの手紙 〈改訂版〉』田中喜芳訳 言視舎

Alvin E. Rodin, Jack D. Key
Conan Doyle's Tales of Medical Humanism and Values: Round the Red Lamp : Being Facts and Fancies of Medical Short Stories
A Straggler of '15
『医学のヒューマニズムと価値に関するコナン・ドイルの物語集』《へまなスタート》の解説及び注　
個人研究用　熊谷彰訳